小説 呪いの王国と渾沌と暗闇の主【第四話 ラッハルツ塔の番人(2)】
大公殿下は、斧の事件が起きてから始終落ち着つかない。苛々し、胸のあたりが重い、はっきりしない靄がかかったような気分が続いていた。執務室で、ずっと座った椅子の肘掛けの上を指先でとんとんと一定のリズムを叩きながら解消する方法を模索して、ヒントを思い出した。そして、さっそく執務室から出た。立っていた二人の護衛を引き連れて宮殿内を意味もなくいったりきたりしながら考え事をする(ふりを)した。本日は都合良く大広間で夜会が開かれるというわけで支度中の家来たちが忙しそうに走り回る姿が多い。彼はいまにも吹き出しそうな笑いを必死にこらえながら一番混み合っている場所を選んで急に早足でいっきに突き抜けて、まんまと護衛の目をくらますことに成功した。
(これをやるのも久しぶりだ。あいつらはまだ経験がないから、いまごろさぞかし驚いていることだろうな)
彼は愉快に思ったが、大げさに騒がれては面倒だから、あまり長居もできないと考えながら、少し不安だった。(彼はいったいどんな顔をするだろう?なんせもう何年も訪れていないのだ。)誰にも見つからないように、隠れながら、やっと黄金の間の前までやってきた。
一瞬戸惑って思い切ってノックした。
「これはこれは!」
朗らかな顔が現れた。戸惑っていると、
「どうなさった通りすがりの旅人よ!我が家は止まり木。ご遠慮無く!ささ、どうぞお入りなさい!さあどうぞ!」
大公殿下は、久しぶりの我が家に帰ってきたように部屋の中をみまわした。こじんまりとした小さな部屋は、寒々しい石壁だった。ちり一つ無い。清潔で隅々まで掃除が行き届いていた。壁には十の鍵が鉄の輪につり下がっている。年代物の戸棚と木彫りの猿の(なんと拷問用だ)頭がのった二つの椅子。テーブル。吹き抜けと暖炉。自在鉤につるしてある真鍮の深鍋。使い古したベッド。古い茶器。何一つ代わってはいない。彼はほっとした。すると塔の番人が、
「また随分歩き疲れたごようですな。で、今回の長旅はどうでした?」
「え?・・・あ、ああ、そうだね」
「どうしたんです?いつまでも突っ立ってないで、そこにお座りなさい!」
大公殿下は、やっと嬉しそうに口元をほころばせて、すすめられた椅子に深く腰掛けた。側にいる家来たちの知らない、まどろむような表情を垣間見せながら、藍色の上着を脱いで中に着ている袖口のゆったりとした白シャツの留め金を、一つ二つ外して、ふっと、小さなため息をもらした。薬指にある獅子の指輪の表面を指で撫でながら、
「途中で諦めて帰ってきてしまった、といったところかな」
以前よりずっと落ち着いた低い声で答えた。
「そうですか」と彼は返事した。
「うん。地上は息がつまってね。だけど地下が一番まともに呼吸ができる場所だなんて、おかしな話だね」
「そりゃいわれてみれば本当にそうだ!ははは」
青年はうっすら微笑んで続けた。
「君が以前と変わらないのには安心したよ。塔守、昔のように、とはいかないが、またこうして、気が向いたら、やって来ても構わないだろうか?」
「勿論ですよ!」
塔守の返事に、灰色の虹彩が大きく広がって青年は、今ははっきりと微笑んでいた。そして上品で丁寧な話しかたに流れるような情緒が加わって思いやりのある優しい口調になった。
「ありがとう、塔守」
番人は、旅人が落ち着いたところを見計らってお茶をそそいで手渡したあと、テーブルには何個か並べて置いてある鍵を、椅子に座って布の切れ端で磨きだした。
「君のいれるお茶、いつも美味しいね。ねぇ、ところでそれ、なにをしているところ?」
「みての通り!手入れです。金属は磨かなくちゃね。換えはないんです。困ったことに、もうこんなに古い加工のしかたをする細工師はいないんです。大切にしなきゃいけません。貴重な代物なんだから」
「ああ確か、ティアラティルの石を加工しているんだったね。それぞれに色が塗ってあるから、見た目にはわからないけれど」
「そうそう、見た感じじゃあ、ただの金属のようですがね。お国の宝です。発光する石は」
青年は男の顔を見て不思議そうな顔をした。
「あの、私は妙なことに気づいたよ。君はまったく変わっていないということだ。少しくらい変わっていてもおかしくないのに。自分だけが意味もなく年をとったような気がするよ。これは、以前から聞こう聞こうとは思っていたことだけどね、君、いったい、いくつなの?」
「おや?はじめての質問ですな。わしは、うん?うーん、もう忘れましたな」
「忘れた?おい、からかうな。私はもういい大人だ。あの頃の少年ではない。君は、いくらなんでも物忘れするほどの年寄りではないだろう?」
「おや?そういわれてみれば、あんたも以前より身長も伸びて体つきも随分男らしくなりましたなぁ。あ?ああ、あんたは昔、こういっていたっけ。なんともかわいらしい声だった。『偉くなるんならもっと貫禄つけなきゃね!じゃなきゃ偉そうにみえないもの!』まさに有言実行。たいしたもんですなぁ」
「か、からかうなと、いっている」
「まあ、いいじゃないですか。自分でもいっていたでしょう?謎は謎のままが?」
「一番楽しい!」
あはははと二人は声を出して笑った。
「ああ・・・ひさしぶりに笑った。君と話している時が一番ほっとする。知ってのとおり私は子供じぶんは田舎町で普通に暮らしてきたからね。未だに城の暮らしにはどうも慣れないのだ。それに父が亡くなってからは恭しくされたり、仰々しくされたりして。疲れることが増えた。仕事も多いし。用心しなくてはいけないことも多いしね。人とは恐ろしいものだと肝に銘じておかなくてはならないと常々思っているんだよ。お世辞やへりくだりに鈍感になれば足元をすくわれる原因を作りかねない。例え純粋な尊敬心が発露であっても、簡単に人の心は変化するものだから。そうだろう?恨みを一切買わずして生きていける者なんて、いないのだ。今の所、私はそのような者に出会ったことはない。もしも、そんな人間がいたとしたらな、それはきっと人らしい人ではない。まるで、そうだ君のように・・・おや?どうした?なぜ困った顔をする?」
「いやいや、これはまいった。評価しすぎですな。わしは、怨まれるもなにも、人との接触がないんですから。たぶん一生そんな心配はありますまい!気楽な家業です」
青年は、ほんの少し間をあけてから、呟くように、
「羨ましいけど、でも・・・君の仕事も大変には違いない」
「なんでもおっしゃい。遠慮なんてしないで」
「なぜ遠慮していると思うの?」
「話したいことがほかにあるでしょう」
「顔に書いてあるかい?」
「そんな気がしただけ」
「やっぱり君には叶わないな」
「そりゃあ年の功!」
ふっと笑って急に深刻顔になったが、番人は気遣いなふりでもしているのか、そのまま何気ない様子で手元の作業を続けていた。
「塔守」と、大公殿下は少し意を決したようにして話し始めた。
「・・・鷲門の事件、知っているかい?いやまだ知らない筈だ。なんせ今朝起きたばかりなのだからね。いやなに、像の眉間に、見慣れない斧がささっていたのだ。あれは見事な腕力だ。並みの力ではあるまい。きっと獣のような大男がやったに違いないと、想像したら、思わず噴出しそうになったよ。もちろん、こらえたがね。いったいどんな怪物なんだろう?」
「ふん。で?」
「それでその、私には他の者のほうが、辛そうで、そちらのほうが痛ましく思えたのだ。肝心の守護神像よりも」
数秒の間があった。突然「え!」と、塔守が声をあげ、続けて「なんだって!」とまた大声で「眉間に斧だって!?」と叫んで驚いた。そして大公殿下の顔を、まじまじと見て信じられないといった素振りをした。青年は何事かと驚いた。あの番人が椅子から跳ね上がってみせたのだ。唖然とするしかない。塔守は、おそるおそる、それも意味もなく声をひそませ、「ほ、ほんとうに?刺さってた?」
大公殿下は片方の口角をヒクヒクひきつらせながら答えた。
「うむ、さっきもいった通り。我らの守護神が、どこぞの不届き者により穢されたというわけだ。そういえばあの斧には不思議な印が刻んであってね。十字?いやはっきりと覚えていないのだが、たぶん文字かなにかだろう。もし君がなにか知っているのなら教えてくれないかと思ってね。そんなに永く生きているなら、なにかしら知っていても可笑しくはないだろう?」
塔守は頭を左右に振りながら、
「いいや!そんなもん見たことも聞いたこともない!」と、咄嗟に答えた。
「・・・どうしたんだい?君らしくもないね」
「そんなことはない!気のせいですよ」
(気のせいだって?どこからみても息が上がっているじゃないか。)と、大公殿下は心の中で不機嫌にぼやいて、それでいて冷静に相手の仕草を注意深く監視しながら続けた。
「興味があるのなら今夜にでもいってみればいい。明日にはあの隠遁賢者が、沈黙の館からでてくるだろうから。今夜が最後のチャンスだ。場所は外壁の鷲門。いいね?」
話を聞いているのか聞いていないのか、番人はまだ口を半開きにしたままだった。磨いていた鍵も握りしめたままだ。青年は、はあ、と深いため息をついて上着を手にとって、立ち上がった。
「さてと、もう帰る。たぶん上で誰かが探し回っているだろうし」
と、歩いて二、三歩、一旦扉の前に立ち止まり振り帰ると、今度は彼は我に返って彼のことをしっかり見ていた。ほっとして眉端をおとした。
「塔守」
「え?」
「実のところ、君は、この私がどこの誰なのか、とっくに気づいているのだろう?」
ずっと聞くに聞けなかったことを口にした。
番人は平然と頷いた。だが大公殿下は肩を落とした。
「だろうとは思っていた。(だから余計、来づらくなってしまったというのもある。)でもね、これだけは忘れないでくれ。君の友ということに変わりない。君がどう思っているかは知らないが、少なくも私のほうでは、そう思っているのだよ。君との関係は、これからもずっと変わらずにいたい」
後ろ手に扉は閉められた。その扉越しに包みこむような優しい眼差しが自分を見つめていたことに、彼は心で気づいて、ほほえんだ。
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