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我が家の小鳥のピノちゃんが調子悪い。 元々足が不自由で指がほとんど動かない。 お医者さんに行ってビタミンBを処方されたけど治らない。 片足だけ酷かったのが両足になってきた。 ピノは性格がまっすぐで裏表のないいい子だ。 鳥にも性格というものがあるのです。 個体差がかなりあるのです。 昔いたポポというセキセイは性格が悪くて気弱な鳥に意地悪したり悪口言って他の鳥を怒らせるということを頻繁にしていた。そういう鳥は「社会性がない」というそうで、私もポポはそうだったと思う。 そのポ
啓発するまたは洗練させるという意味でも使うカルチベート。 私は勉強をしてこなかった。学習障害を持っていて時計を理解できるまでに時間がかかり、結局時計が読めるようになったのは中学一年生の時だった。 そういうこともあり、勉強が大嫌いになった。 しかし今は後悔している。この太宰治の本を読んでいたら、幾分が違っていただろうか?この言葉を代弁してくれる大人がいたら変わっていただろうか?もしかしてもしかして、そんなことを思ってしまう。 きちんと勉強し思考が洗練され生きていく上で大
舞台は冬で始まる。 ──私はその百日紅の木に憑かれていた。 この一文で始まる福永武彦の「草の花」を読んでいる。 いわゆるサナトリウム文学で主人公は結核ではなく心疾患を患っている。その療養所・寿康園で出会った汐見茂思の日記について書かれた物語だ。 ◇目次 冬 第一の手帳 第二の手帳 春 解説(本多顕彰) 百日紅もしくは霊安室に取り憑かれていた主人公は詩人だった。 ある日のこと汐見にこう言われる。 「芸術家の生涯は未来においては完結するのだね。いつか書く作品、いつか書く
どうしようかなって思うわけ。 何っていうとカクヨムなんてには読まれなくても書き続けている人が沢山いるということ。あれ、私にはどうもわからない。 「小説は自分のためだけに書いてもいいんだ」 どこかのコラムに書いてあった。そうだよね、確かにそうだと思う。 誰かに何かを伝えたくてとか誰かに読んでもらいたいとか色々あっても、自分で単に書きたいから書く。それって純粋なんじゃないかな。 ならば自分もそうすれば良いじゃんっていう気持ちと虚しいって気持ちがある。 カクヨムで何度か作品載せ
(もうすぐハロウィーンですね。 と言うわけで扉絵はこの美少女を選ばせてもらいましたよ。) 絵画と小説のマガジン、削除してしまいました。 noteを始めた時、あれもこれもやりたくなって色々やりすぎちゃった。気負いすぎたら焦るだけなので思い切ってやめます。スキしてくれたのにすいません。 今は、新しい小説のプロット作りと古い作品のリメイクをしています。 別にどの小説賞に出すとか考えず、ただ良いものを書きたいという一心で書いています。 新しい小説は、実際にあるお隣さんをモデルにし
先週から突然寒くなり体調を崩しています。 私の場合、統合失調症の陰性反応で鬱になります。基本的に躁鬱気質なので突如として躁転しいきなり怒ったりします。コントロールできません。 通常の躁鬱とは異なりスパンが短いのが特徴なのです。 普通なら数日かそこらで気分障害の躁鬱が入れ替わったりするのですが、そうはいきません。 大体、数分間で気分が逆転したりします。怒ったり泣いたりを繰り返すのです。 辛い時は死んでしまいたくなります。 そんな時、自分自身の心からの衝動を抑えるのは並大抵
昨日の夜、どうしても死にたくなって、どうやって死のうか実際に頭の中で繰り返してました。でも結局死ぬなら新しい小説書いてなんとかしたいと思いやめることにした。 なんでこうも死にたいと思うのかというと、現実が耐えられないからだと思う。 現実と私がうまく引っかかってくれないというか、交差しないというか。 うまく説明できないのはリアルの知人がこのペンネームを知っているから具体的な話はできないというジレンマがある。 それならばペンネームを変更すればいいと思うのだが、長い間この名前で
私の作品に徹底的にないものがある。 描写だ。 この描写、自分の一番苦手な部分だ。 観察眼がないというわけではないと思う。 ただ、物を見ている時視線がちょっと異なるのだと思う。 好きな作家さんの作品を読んでいつも思うのが この描写に優れているというところ。 自分にも出来ないだろうかと考えて ちょっと今「ストロベリージャム」と言う自分の小説の 一部分を書いてみた。 だめだなと思う。 もっと外に出ないとだめなのかもしれない。 外出は苦手で部屋で妄想して一日を過ごすのが大好きな
最近ではもっぱらnoteで日記を書いている。 これは書きやすさもあると思う。 今、次のタームを開始している。 もう十年以上昔に書いた渾身の作品を改稿している。 なんで今頃やってるの?みたいな。 でもこれ実は病院で仕上げたという事情がある。 しばらく不調で入院を一年近くしていた その時に精神状態があまり良くなかったのに書いたのだ。 それを今、読み返してみると、これがひどい。 誤字脱字なんてものじゃない。 内容が支離滅裂だ。 でもこれね、深いプロット作って書き始めたから、設
ある事があって、どうしてかとても哀しいような気分がして堪らなくなった。 私は文芸誌や大手出版会社の小説賞で純文学を書くことをやめた。 新潮社の勉強サイトに参加して、嫌と言うほど自分に実力がないことがわかってしまったのだ。 「こんなんじゃ、無理」その一言だった。 年齢的にも体力的にも病歴的にも、もういつ倒れてもおかしくない自分。 これからもっといろんな人の作品読んで、猛烈な勢いで猛烈に勉強してなどとできないのだ。 それより自分は自分、自分らしく自分のペースで楽しく執筆したい。