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真我の軌跡

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真我補の本質は存在するということだけですが、この世界から見たときに、それは72の概念として言い表すことができます。
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2024年5月の記事一覧

真我の軌跡(15)貧者

真我は何も身に付けず、何も持っていない。 そのため、世界からは貧しい姿に見えるだろう。 だからといって、真我が世界に何かを求めることはない。 求めずとも、その真我の内に世界はあるのだ。 世界はそれを知らず、真我は貧者として世界を慈しむ。

真我の軌跡(14)静寂

真我には一切の音がないため静寂と呼ばれる。 それは真我にとって変えようのない自らの本質のこと。 そこで静寂でいようと努めているわけではない。 心の中の音を鎮めることで静寂になるのではなく、 真我自身として在れば、それは自ずと静寂になるのだ。

真我の軌跡(13)知性

真我は自我を超えたところから世界を見ている。 それは認識と呼べるものだが、決して自我ではない。 そこには自我の要素がまったくないからだ。 本来、「私」とはこの真我のことであり、 ここに存在していると気づいている知性のことだ。

真我の軌跡(12)有性

真我は目に見えないからといって無ではない。 それは決して消えたり、失ったりするものではないのだ。 そこに有ることが真我であり、それは誰にでも認められる。 無を観察するのではなく、有ると同化することだ。 無に紛れるのではなく、有るを明晰にすることだ。

真我の軌跡(11)瞬間

真我は静止しているため時がない。 それは世界の時の中心に留まり、同時にすべての時を網羅している。 そもそも真我には過去や未来、現在といった時間の概念がない。 時のない真我を源流として、世界には時の移動が起こっている。 人の過去生や転生も、真我にとっては重なった瞬間の出来事なのだ。

真我の軌跡(10)無垢

真我を貶めることも汚すこともできない。 汚物や悪意を投げつけられても、真我には曇りひとつ付かない。 世界の変動に影響されることもなく、ただ無垢のままでいる。 そうして世界を拒絶したり無視したりしているわけではない。 そう在ることが世界の本質たる所以なのだ。