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最終的には、内側に向かうしかない 外側はすべて幻しだ。(目覚め・明け渡し・悟り)

すべての答えが、自分の内側にある。

外側には、答えは無い。


もし、「自分はどうでも他人のために貢献するのが良いことだ。」と言う教えがあるのならば、

それは完璧に外側へ向かう教えである。


外側に見えるもの、外側に聞こえるもの、すべて幻しであり、偽物であり、インチキである。

例え、神様や、宇宙や、高次元の世界が見えたのなら、それも幻しで、偽物だ。


見えたものはすべて偽物に過ぎない。

だから昔から、「仏に会ったら、仏を殺せ。」と言う。


愛も、喜びも、笑いも、安心感も、リラックス感も、満足感も、すべて自分の内側に最初から揃っている。

最初から、すべて持っているのだ。


自分の内側だけが本物の宇宙であり、外側に見える宇宙は偽物だ。

内側にだけしか、本当の答えは無い。


外側をいくら探求しても、偽物にしか行きつかない。

本物の、お宝は、自分の内側にある。


昔の禅僧は、その悟りを伝えるのに、弟子を殴ったり、弟子の腕を切り落としてまで、それを府に落とさせようとした。

そしてその行為を、蛮行では無く、愛と言ったのだ。


悟りも、幸せも、すべてが、最初から自分の内側にあり、自分の身体の中にあるのだ。

自分の身体(家・Home)に最初から、完璧に誰もがすべてを持っている。


悟り・幸せを望むなら、外に出て遊んでいる意識を、家(Home)に戻すのだ。

家から1歩も出てはいけない。


意識が、外に出れば、出たとたんにエゴ(思考)が、不安や怖れ、または苦しみ、辛いを体験する。

飼い猫のように、意識が家から出ないように、管理する必要がある。


完全に意識を、家の中で飼いならすことが出来たなら、外に出して楽しんでも大丈夫かもしれない。

「外に出て荒波に揉まれることこそ、地球の醍醐味だろう。」そう思える人は、家の中にいる必要は無い。


またそれを魂(ハイヤーセルフ)が求めているのなら、家の中にいることは出来ない。

すべては、魂(ハイヤーセルフ)が決めることだから、人へ向けてこれを書いても意味はないのかもしれない。


目覚め・明け渡し・悟りに行った人は、書くのを辞めて、筆を降ろしてしまう。

外側に発信する必要が全く無いからだ。


私を含めて、外側に発信しているうちは、本物では無いとも言える。

完全に目覚めて、明け渡しが出来て、悟りに行きついた人は、世の中の表には出てこない。


世の中で、表に出てる人、ブログ・YouTube・本で、自ずから配信している人の中にはいない。

本当に行きついたのならば、すでに私は存在しない。


私もあなたも存在しない。

自分の内側を極めれば、外側にもなって、内側も外側も無いことに気づく。


本当は、内側も外側も無かった。

ただ最初は、内側に向かわないと、それにすら気づかない。


外側の葉っぱに、気を取られていれば、幹の下の根っこには、気が付かない。

内側の幹の中を意識するから、根っこにも気がついて、すべてが一つのものだとわかる。


すべては一つと言いながら、「他人のため。」とか、「神様のため。」とか無いんだよ。

もともと他人も、神様も存在しない。


私すらも存在しないのだから。

「何もない。」のではない、ただ一つの宇宙の創造主(源)の意識体だけが存在する。


意識体は一つしかない。

私も他人も、偽物であった。


確かにここで、外側は偽物と言ったが、

目を閉じて、思考を停止した時に感じる、なにも考えていない時に、「在る。」を感じる、「それ。」だけが本物で真実だ。


「それ。」以外は、すべて偽物で、それを言葉で完璧に表した人もいない。

モーゼですら、「That.」で説明できなくて、「I am That 」と説明したために、現代まで混迷が続いている。


That.を100%感じて、捉える方法の一つが、徹底して自分の内側に向かうことである。

なぜならば、自分の魂(ハイヤーセルフ)が、その「That.」そのものだからだ。


魂(ハイヤーセルフ)が、宇宙の創造主(源)の下位バージョンと、考えていると別な方向に行くだろう。

それが正しいのか、間違いかは知らない。


ただその考えでは、分離の方向に行くだろう。

現に、(源)と直に話せると言う方々たちは、その下のものとして、線引きをしているからだ。


(源)と会話が出来ると意識した時点で、すでに分離なのだよ。

相手の考えを否定してくる人に、悟りは無い。


この世のものは、すべて正しいからだ。

すべては源が、完璧に運営して、源が演じているもので、完全完璧なのに、


他人に対して、「それは違う。」と言うのは、宇宙の創造主の完璧性を否定することになる。

それでも3次元では、違う考えが存在する。


それはそれで、「そうなんだ。」と聞いて流せば良いだけで、自分で合わせる必要も無い。

話しが枝葉になってしまったが、


私も他人も存在しないのだから、正しいも間違いも、善も悪も最初から無いのだ。(本当は、分離も最初から存在していない。)

That.以外は、何もない。


最終的には、That.になることであり、自分がThat(それ。)で在ったことを思い出すことである。

人生とは、「それ」を思い出すための旅路であり、ゲームだ。


私の場合は、「それ」を思い出し、That.(それ。)になるためには、自分の内側だけを徹底的に意識し続けることだと思う。

それ以外は、枝葉で、この地球を楽しむ道具に過ぎない。


That.(それ。)こそが、真実であり、本体であり、父であり、母であり、神であり、私そのものなのだ。



※(注意↓) 

「私。」と言った瞬間にThat「それ。」では無くなる。

「私。」と主語を使った瞬間に二元になり分離する。


己の内側にThat「それ。」があり、そこに入れば心地よい幸せな感覚しかないのだ。

何もしないでも、何が無くても、幸せでしかなかった。


That「それ。」から出た途端に苦しみに出合う。(強烈な楽しいもあるが。)

※ That「それ。」=源(ブラフマン)=魂(アートマン)=ハート=右脳



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