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#005_振り返って…いま

 大人になり発達障害が発覚し13年の月日が流れた。私の最愛の一人息子も発達障害で知的障害を伴う自閉症スペクトラムだ。息子の障害が発覚したことから、自身も幼い頃から感じていた“人との違い”が、昨今よく耳にするようになった〝生きづらさ〟の正体だったと気がつき精神科を受診したことが、良くも悪くも福祉や精神医療に纏わる世界への入口になってしまった。ただ、その始まりは最終的なゴールではなく、次のステージへの序章の序章に過ぎなかった。しかも〝沼〟だった…orz

 精神科受診を試みた当初は、ADHD(注意欠陥多動障害)の確定診断がおりたのだが、その後の通院で2次障害が発覚したことから、病院を何度か転院しながら長年治療を行ってきた。※現在は広汎性発達障害(ADHD)と最近「てんかん性精神障害」という診断名に変わり自宅療養中の身。

 幼い頃からぼんやりとになるが、他者との〝感じ方〟や〝価値観〟の違いに苦しんでいた。それは、住んでいる地域がド田舎だから…ということで済ませていた。それと、世間一般でいわれる「普通」という枠におさまれば、それらの苦しみから逃れられると思っていた時期もあった。
 自助努力でなんとかなることもあれば、歳を重ねることなどで解決することはあっても、問題はただすり替わり、私の中に貯蔵されていくだけとなっていた。
 一度、発達障害の確定診断をうけたことから、2次障害のうつ病も発覚し病気療養のために障害年金を受給するにあたり〝反復性鬱性障害〟という診断が一旦おりた。 ただ、自身が本当に困っていた精神的な症状は、治療を行っている最中に転院し、何度か変わることになった歴代の主治医に、ハッキリと伝えられてはいなかった。
 現在は生活保護になったことから、自治体指定の精神科にお世話になっているが、その前までは、精神科のカリスマといわれている神田橋先生にお世話になっていたことがある。先生の受診をセカンドオピニオン的に受けようと思ったのは、息子に起きていた行動障害が酷さを増したからだけでなく、私自身の身に起きていた、オカルト現象を否定せず理解してもらえそうな先生だったからだった。 ただ、その先生にさえも、きちんと話せていないことも実はあった。いや、私自身に起きている現象を先生に話さなくても視えていらしゃっているだろうと思っていたこともあるが、当時、私に視えていた情報や啓示みたいな物事をその当時はまだ何から何まで伝えられなかった。何故なら、まだその当時は言語化できるまでにいたっていなかったことと、私の脳内に日々降りてくる不確かな視えない言葉や啓示のようなことを話すことは、いくら精神科の先生といえども専門外だとも思っていたからでもある。 先生が悪いのではなく、降りてくる情報や視えている情報を全て伝えることはしないようにしていた時期でもあったからだ。不確かな情報だからこそ言えなかったということでもある。
 今現在の主治医へ変わるまでに、神田橋先生を含め6名の先生に診ていただいたのだが、その治療の際、私なりの「治った」という感覚は何度も次元上昇させれてはいた。
 3歩進んで2歩さがるといった治り方であったが、私なりの「治った」感覚と共に、どこか満足できていない自覚も併存しており、それがどういう意味を持っているのかがわからず、もどかしく歯がゆい思いも抱えていた。そういった心理状況をを言語化するならば〝自己矛盾〟という4文字熟語がピッタリのように思う。
 なぜ、私がそういう感覚に陥るのかというと、怪我をし〝かさぶた〟ができた時、その〝かさぶた〟が自然にはがれるまで、そっとしておいたほうが〝綺麗に治る〟だろうということは知識として知っていても、そのまま放置できず…というより、感覚過敏の特性上なのか、そのまま放置することができず、すぐ剥がしたくなってしまう自身の性質がそう感じさせてしまっていたのかもしれない…。
 皮膚過敏があることで一部だけ皮膚がつっぱる感じを感じてしまうことから違和感となって、つい剥がしたくなってしまうのだ。そういった特性を持っていることで、表面上は寛解にむかっているように感じても、私の心のどこかに潜んでいる病的な根っこの部分を探すための行為でもあったような気がする。

 私自身が確定診断を受ける前、息子が先に乳児検診で発達の遅れを指摘されたことから〝発達障害(自閉症スペクトラム+知的障害)〟が発覚した。 その当時は、仕事柄インターネットを利用していたこともあり、診断がおりる前から発達障害の大半の情報収集はネットで行っていた。今からまだ15年程前のことになるのだが、それでもまだネット上で発信されていた情報は今よりもかなり少なかったように思う。
 それでも、公的な場所での情報よりは、まだネット上の情報量のほうが多く最新に近い情報が多かったように思う。それでも遅れてはいたけれど…。

 私は学ぶということが嫌いではないし、不思議に思うことはなるだけ、そのままにせず理解したいと思う人種なので、障害や療育に関する情報をネット上から得るだけにとどまらず、講座などを受講することも行っていた。 そういったことが〝親学〟といわれるのかはわからないが、息子と暮らしていく上での子育ての術を得ることは、母親だから当たり前のことだと思っていたし、それらの学びは、後に自身の身の上に起きていた不具合の回避にも役立つことになった。
 それでも、なかなか自助努力だけではうまくいかないことが多く、佐賀にある自閉症スペクトラムに特化した民間の療育施設「それいゆ」で、短期間だが成人支援を受けていた時期もあった。
 成人支援で様々なアドバイスを受けていたのにも関わらず、その当時のパートナーとの折り合いの悪さを相談したりもしていたし、当時の友だちに相談しても、実際、問題は複雑に空回りするだけで解決するまでにいたらなかった。 そして、その後、積もり積もった我慢が結果的に私の中で元夫との夫婦関係を脳内の〝終わり〟の箱にいれてしまったことから、最終的には離婚することになった。
 離婚したことで、必然的にシングルマザーになった。元々家事育児もそんなに上手にできていた方ではなく、特殊な療育を行いながらのワンオペ育児に仕事…。そして、仕事以外での人付き合いなどでトラブルも抱えていたことに加え、迷うからこそ占いやスピリチュアルな世界へ足を踏み入れてしまった。 元夫との折り合いは悪かったものの、養育費はもらえていたので生活はできていたのだが、離婚して1年も満たない頃、私は心身ともに壊れてしまうことになり閉鎖病棟へ緊急入院することとなった。
 それからこれまでの11年の間で起きた出来事は、決して悪いことばかりでもなく、良い出来事にも恵まれた。
 入院することになった大きな原因の一つが、人間関係で大きな失敗をしたことだったことで、自分みたいな人間に、新しいパートナーなんてできないだろうと思っていたし、むしろ、きちんと子どもを育てられていない自分のような立場の人間が、また誰かを好きになるなんてことはイケナイことのように思っていたが、なんだか、すんなり新たなパートナーに恵まれ、一度は社会復帰をとげることもでき、一度綺麗にぽっきり折れてしまったことで、再度自分らしさを取り戻すこともできた。
 緊急入院したことから母子分離となったことが功を奏し、母子共々心身ともに一度は〝寛解〟したかのように思えたのだが、それはある一定の条件の下での〝寛解〟にすぎなかった。 それは、一度離れ離れになった息子と再度生活を共にするようになってわかった。

 自身の不具合となっていた〝二次障害〟は、まだ完全に治りきっていない(寛解とはいえない)状況ではあったが、息子と共に暮らし始める前に新たなパートナーと同居をし生活を始めていたこともあり、息子と3人で暮らしていけるんじゃないかという淡い期待が芽生えたことから、当時のパートナーに相談し同意してくれたことから、私たちは新たな生活を始めることとなった。
 再度息子と生活することで、私や息子にとって親子のやり直しができるんじゃないかといった思いもあったからだったからだ。それと、私が女性だからこそ、成人の男性が共に暮らすことの意味は大切なことだとも思ったからでもあった。その点だけでなく、当時のパートナーと息子がそれなりの関係性をきづけていたことも、改めて共に暮らすことの後押しにもなった。そして、息子が中学を卒業するのを機に新しい生活がはじまった。

 息子と共に暮らし始めた間もない頃、とある出来事が起因となり、2度目のドロップアウトが起きた。 息子を迎えた新しい生活は、当初はそれなりに上手くいき、新たなパートナーは義理の父親になるが、父親役を担いながらも私のことも支えてくれていた。はじめのうちは、私たちなりの〝家族のカタチ〟がそれなりに描けていたようには思う。
 ただ、人間、様々な負の連鎖が重なることでどんどん巻き起こる不具合というものはあるものだなと痛感している。そして、それらを回避するには、私一人の努力だけではどうすることもできなかった。そして、その当時の私の器ではできなくて当然だった。
 それに付け加えたい重要案件として、私や息子に纏わる一人一人が、ある一定の必要最低限の同じ〝精神性〟や〝倫理観〟を持っている必要が〝ある〟か〝ない〟かは、実はとても大切なことを思い知らされた。それらの価値観の根っこの部分が同じかどうかで、どんなにこちら側から支援を求めて手を差し伸べても、その手を握り引っ張り上げてもらうこともできなければ、きちんと伝えていて聞こえているはずなのに、スルーされ先延ばしにされていた。
 そして、その当時の私は、自身のことに精いっぱいだったこともあったからか、パートナーや息子それぞれの思いに心を配りながら共に暮らすまでにいたっていなかったことも大きかったと思う。 だからといって、今の私なら大丈夫かどうかはわからないけれど…。
 私たちなりに、信頼関係を持ち、その場その場でなんとか切り抜け、共に過ごしていた月日があったとしても、血のつながらない家族だから脆くも崩れさってしまうものなのだろうか…?という事柄を自問自答することにもなった。 私自身、様々なことを越えてきただろう8年付き合ったパートナーだったからこそ、私たちならきっと越えられるといった、私の一方的な思いが最終的には彼を追い詰めた要因にもなってしまったのだと思う。最終的には、3人での生活は2年も経たないうちに虚しく破綻することとなった。

 一度目の夫ともつきあい始めてから離婚するまで6年ほどつきあい離婚するまでの9年の間柄だったが、当時のパートナーはそれと同等なぐらいの年数を共に過ごしていた。しかも、元夫との関係性の中で育まれてしまった様々な呪縛を解き放してくれた存在でもあった。 だからこそ、元パートナーと別れた後の〝喪失感〟は相当なものだった。
 遠い昔、一度どこかでバラバラになってしまった感情がやっと統合したと思えたばかりの時に、また、再度バラバラに壊れてしまうかもしれないと思うくらい苦しんだ。
 物心がついたころから自身の一番嫌いだった醜い部分(人への執着)をなんとかするには、自分にとって〝唯一無二〟に感じる存在を失った時〝恐さ〟よりも〝喪失感〟を乗り越えることで、自身が一番醜いと思っていた〝執着〟と折り合いがつけられるかもしれない…といった想定をしていた。それは、とある当事者の方の体験談を聞いたことで、私の中で確定することになった。ただ、それは私の頭の中だけでの想像にすぎず、実際、それらが自身の身に起きた時、想像していた以上の苦しみを味わうことになった。だが、私にとっていずれは体験することでもある案件だ。元パートナーでそれらを越えられなかったとしても、おそらくいずれ、また別のパートナーができた時に同じくらいの苦しみを味わうことになるか、母がこの世を去る時には、更なる苦しみが待っているだろうと思っていた。だからこそ、やるほかなかった。 それなりの覚悟はしていたものの、あの〝喪失感〟は、もう二度とごめんだ。というか、越えたからこそあれ以上の〝喪失感〟を感じることはないと思うが、言葉にすることができない〝悲しみ〟や〝苦しみ〟はもう味わいたくない。もうお腹いっぱいでこりごりだが、乗り越えてしまったからこそ、おそらく同等又はそれ以上の苦しみを味わうことになったとしても、あの時のように崩れることはなくなったと断言できる。 そして、その苦しみを越え昇華できたことで、私は自分が想像した以上の超越した自分自身に変わることができたのだ…というよりそう成ってしまったといったほうがいいのかもしれない。 
 それからは〝喪失感〟を感じるようなことは何度かあったのだが、以前の私とは違い、苦しみや悲しみが積み重なっていくことはなく、時を経て、それらの感情が薄れながらも大切な思い出として変わっていくことを体験することもできた。そのお陰で、自分事だけにとどまらず様々な出来事を受け止められるメンタルになれたのだと思う。(当社比にはなるのであしからず…) 

 そんな〝人生史上最大な喪失感〟を抱え、シングルアゲインな日々を過ごしている時、私を癒し、この世で生きる灯火となってくれていた存在が障害のある息子だった。
 それでも、自身をこの世に繋ぎ止めるための言い訳にするために、私は息子を生んだのではないか…といった思いが何度も溢れたりして、そんな自身がいたたまれなかったこともあった。
 どこまで私は自分を責め続け、可哀想な自分にすれば気が済むのだろうか…。そういった思いを日々噛みしめながら息子との生活を過ごした日々が今では尊い。 そんな辛かった日々を乗り越え、息子と同じ屋根の下で暮らし始めて今年で丸3年目が過ぎた。
 何もない穏やかな日々が訪れたかと思えば、また新たな課題が生じる。信じられないくらい目まぐるしく様々な出来事が繰り返し起きてはいたが、紆余曲折ありながらもそれなりにクリアし、今春、息子は支援学校の高等部を卒業することができた。
 その共に過ごした3年の年月の中で〝障害〝や〝療育〟〝教育〟又は〝子育て〟に関する思い込みから解放され、新しく書き換えていく過程も体験することになった。そして、その新しい扉へ導いてくれたのは〝医療従事者〟や〝教育関係者〟などといった支援者ではなく、目の前にいた息子だった。
 離れ離れとなった8年間の母子の溝を取り戻しながら〝埋める〟というより書き換えていく作業は、私自身のトラウマや思い込みまで解消され払拭されることにもなった。
 
 話しは前後してしまうが、息子が中学を卒業するのと同時に、再度共に暮らすことにしたことから、一度転校した支援学校へ再度戻ることにした。 
 息子の将来のことに限らず、将来を見据えたライフプランを考えみた時、今後に起こる出来事を考えたリスクを考えた時、いずれ地域に戻ることになるなら、自宅から高校へ通学する生活を送ることにチャレンジしてみようと思ったからでもあったからでもあったのだが、その当時は誰にも話していなかった様々な理由があった。というか、私という人間は自分の中で様々なことが確定するまで人には話さない。なぜなら、途中で話しても必ず前もって反対され、全ての矛先を変えられるような出来事が多かったからだ。
 だから、人に相談する時には、私の中でもうすでに決まっている。だから、相談した相手にいつもビックリされてきたように思う。それだけ、人を信用できない状況でもあったからというのも付け加えておこう。(あっ話がずれている…。)
 前述にものべている、息子と共に暮らそうと思ったいくつかの理由の一つで、息子が支援学校小学部へ入学したばかりの頃、療育のことを盲信しすぎ、モンスターペアレント化した私は、学校と戦うような毎日を送っていたことを後悔していたことも大きい。
 当時の担任の先生を追い詰めるようなことを行ってしまっていたとするならば謝罪したい。ただ、その当時の先生も私だけでなく他の保護者の問いに対して、スルーするような返答しかなされていなかったことは付け加えておきたい。 それでも、私は〝先生だけが悪かったワケでもない〟と気がついたこともあり、息子にとってもトラウマな場所になってしまったようにも感じていたことから、失敗体験のままで終わらせず『それでも大丈夫だった』という経験として書き換えたかったからだ。
※この他の理由については後の章で詳しく綴りたいと思う。

 再度息子と共に暮らし、支援学校高等部へ通学しつつ、地域の中で暮らし初めてからの日々の快進撃は本当に目ざましかった。 ただ、保護者として先生方やデイサービス先のスタッフの方、または精神科の主治医の先生などに支えていただきながら、母子の関係をやり直す作業は簡単なように思えるが相当大変だった。時には支援者や周りの人たちに知恵を借りながらも、人には見えない自助努力ややり方を常に頭の中で模索しながら試行錯誤なトライ&エラーを繰り返していた。本当に大変だった。
 決して私はコミュニケーションが上手といえる人間ではない。10ねんくらい前は、私は自他共に認めるコミュ障だったからだ。その自覚があったからこそ、コミュニケーションに対して人一倍気を使い、その時々でやり方を変え工夫しながら〝やりとり〟をしてきた。 息子は上手にお話することができないタイプの子どもだったけれど、息子との〝やりとり〟よりも、知的な遅れのない人たちとのコミュニケーションのほうが、超絶疲れる事態に見舞われていたのだが、それは一体どういうことだったのだろう???
 それらとは別に、それまで信じていた〝障害や療育〟に限らず、様々な物事や生きている中で刷り込まれていたことをブラッシュアップしていくというより、一度知り得た知識や技術は一旦全捨てし、再構築していく必要があることを体験を通し思い知ったことが、後に〝学校教育〟や〝療育〟に留まらず、自身の人生においても大きな気づかされ、自身の血肉となった。

 上記の出来事と同時進行で私の内面では、一旦終わったと思っていた希死念慮、しかも、これまた〝史上最大級の希死念慮〟が訪れる事態再び…な状況に見舞われていた。 自身でも相当ヤバいと思う日々を過ごしていた時期が実は同時進行で重なっていた(苦笑)。が、なんとか生き延びることができた(苦笑) 『よく生きていられたな…』と我ながら自画自賛するくらいな同時進行ぶりだった。 あの時、私の内面で起きていた〝自分史上最大級の希死念慮〟を言語化するとするなら…

 1ミリにもみたない切れそうで切れない〝命の糸〟が、あと1本だけ残っていることを感じながら、もう一人の自分がその糸が切れないように踏ん張っていたような感覚だった。 今思うと、芥川龍之介の〝蜘蛛の糸〟の最後の場面に似ている。
 あのお話ではお釈迦様が垂らした糸だったが、私の場合にはもう一人の〝生きたい〟と思っている自分が〝命の糸〟を垂らし、必至でその糸が切れないように踏ん張っていた気持ちだった。私にとってその糸が切れずに済んだのは、自分自身がその糸を垂らしている〝お釈迦様〟だと自覚できたからだと思う。
 お釈迦様は、もう一人の生きたいと思っている自身の投影だったのだと思うとしっくりくる。 だからこそ、私はこうして、その時の感覚を言語化することができており、あの時、死ねなかった自分を許し、怖がりな自分もまんざらではなかったのだということに気がつくきっかけにもなったのだ。
 そういう経験をしたことで、幼い頃から嫌で嫌でたまらなかったネガティブな自分を認め受け入れることができ、私はその時、やっと白旗をあげることができた。
(えー? やっとかよ…。というどなたかの心の聲が聞こえてきそうなくらいだなぁ(苦笑)
 それが私にとっての〝観念〟でもあったのだろうと思う。それからの私の自己改革は自身でいうのもなんなのだが凄かった。それはなぜかというと、長年感じてきた〝人として「生きる」〟ことが苦しかった時期を卒業し「生きる意味」を探す必要もなくなったからだ。やっと私にとって本当の意味での「ニュートラル」な状態が到来というか〝襲来〟したという思いを日々ヒシヒシと味わっている。

 この自分史は、そんな私と障害のある息子の「治っていく過程」を含めた原点回帰の物語 だと前章で述べているが、臨床データといってもいいという気もする。エビデンスするには弱い1ケースの症例になるが、今後私や息子のような似たようなタイプの人達にとって、何か役にたつ日がくるかもしれない。特殊事例だと自覚しているからこそ、こういった例もあったことをこうして残していくことで、興味を持った人たちが、別の視点から研究してくださるといいなと思ったからでもある。
 ただ、この〝私の〟というより〝私たちの物語〟(というか実話なんですけど…)を読むことで、逆に苦しむ人もいるかもしれない。そういう人は読まないでもらいたい。なぜなら、乗り越えられない試練はあるし、その試練を乗り越える必要もないからだ。
 壁を越えても越えなくても、今の自分自身を気に入っているならそれでいいんじゃないかと私は思う。ただ、私の場合、様々な試練を越える経験をするしか術がなかったから越えただけに過ぎない。様々な経験を積み重ねた今の私だからこそ、言える言葉でもあるのだけれど…。シンプルにいえば、越えたからこそ、どうすればいいのかわかるがおススメはできないっていうことだ。 死に直結する物事を避け逃げる行為が、人の中に潜在的に備わっているからこそ、死なないために試練から逃れていることであるかもしれないからだ。そりゃそうだ。命の危機なのだから逃げてもいい。当然なことだと思う。ただ、私はそれらをやり遂げるための知識や仕組みをしっていたからこそやり遂げられただけなのだ。だからこと、おススメはしないし身近にそういう人がいるなら〝やめとききなさいよ〟っていうと思う。というか、人間ワザワザそんなことをしなくても、いつの間にか大丈夫になっていたということも経験したからでもある。

 そういったことから、新しい世界への扉のドアノブに手をかける前に、想像していた以上の結果が出たことで少々困惑もしているが、どうやら〝超越した自分になる〟ことができたようだ。
 それでも、おそらく健常域の人たちと同じレベルなメンタルなのだけれど…(苦笑) ただ、そこに至るまでには、様々なことを振り払い、再構築させる知恵も必要だったが、それより大切だったのは、ただただ、未来から流れてくる時間を淡々と過ごすこと。そして〝続ける〟ことだった。
 目の前で起こる現象に自分を誤魔化すことなく応えていくかのほうが大切だった。なるだけ誠実に今できることに集中し最善を尽くすこと。そんな簡単なことで日々を過ごせばよかっただけだったことに気づいた時は、正直言って項垂れ、滑稽な自分を笑うほかなかったが、今ではそんな自分も丸ごと愛おしく思えるようになれたので〝良き〟ことだと思われる。

 私と息子が再度共に暮らしはじめてから過ごした約3年という月日は、私たちにとってはとてつもないかけがえのない時間になった。それらの経験で得た事をこうして言語化することで、私自身の気持ちの整理になるだけで終わらせても良かったのだが、元々積極奇異でもあるしこれぞ、自己承認欲求を満たせることはないじゃないか!と思い、こうして発信することにした。 今現在、私と同じようなことで悩んでいる方や行き詰まりを感じている方、そして、障害や自己改革を勘違いしている方…等に届いてほしいなといった思いもある。

 そして、自己受容(どんな自分も認め受け入れる)ということがどういうことなのか? 又は〝治癒〟するということがどういうことなのか? そういった問題提起も踏まえて、この自分史を通して伝えていけたらと思う。
 そして、私たちの物語を読むことで、一人でも多くの方が〝何か〟を感じ取り自身の苦しみの種に気がつき〝より良い未来〟に繋がれば尚嬉しい。
 自身の中で雁字搦めになっている案件は、ふとしたことで紐解かれることを知ることで、読んでくださっている方の足枷となっている〝呪詛〟から開放されるようなことに繋がりますように…。


※写真は息子が小学生低学年の頃。 広告紙を自分でちぎり、小さくしたものを床に並べて遊んでいたのです。私よりも才能を感じます。『ナスカの地上絵』みたいじゃんと思っていました。

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