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#008_鬱襲来?!

それは〝突然〟やってきた


―2016年3月初旬―

 今日の空はやけに清々しい。空は好きなはずなのに、青くてピーかんの空をみてもちっとも心に響かないのは〝鬱襲来?!〟なのか、はたまた、昨今の様々な出来事のお陰で、私の心の目が年老いて曇ってしまったからだろうか? いやいや、違う。どう考えてもおかしい。
 ああっそうだ…(汗)。そういえば、私3日前にやっちまったじゃん4度目のOD(苦笑) で、今ココ、地元の駅で電車を待っている。

 OD(オーバードバーズ)は、薬を過剰摂取又は過量服薬することだが、今回が初の試みではなく、常習犯っていうほどでもなく、とりあえず、自分の負の感情(特に〝怒り〟と〝悲しみ〟)がどうしようもなくなった時に、それらから逃れるための手段の一つがODだった。数年に一度(オリンピックかよ…)の割合で、私にとって大きな出来事が起きた時にやっちまうことがあった。  ただ、ここ最近は過剰摂取することはほぼなかった。
 初めてODをしてしまうことになったのは12年前。自分がやってしまったことで大きなトラブルが起き、人を鬼にするくらい傷つけた。そして、完全に自損事故のような状態だと思って、相手の方の怒りを受け止めようとしたのだが受け止め切れなかった。その場ではどうすることもできない自分をなんとかおさめるために、当時飲んでいた抗精神薬をとりだし、一粒ずつお皿にだして落ち着かせてみることを試みた。 緩衝材を潰したらちょっとストレス解消されるような気持ちに似ていた。ただ、それは一時しのぎに過ぎず、処方されていた薬を全部出し切ったまではよかった。 ここで、何を血迷ったのか〝捨てるのは忍びない〟といった気持ちが芽生えたことから、『飲まなきゃ勿体ない』という思いが浮かび、後先考えずそれを実行してしまったのだった(苦笑)
 そして、その時も病院へ行くこともせず、友だちが対処してくれたりして、後は自分で対処した。眠っている途中で何度か嘔吐したこともあり、翌日普通に目が覚めた。だからか、病院を受診することもなく、その後に起きていた、離脱症状に苦しむことなくなんとか過ごせてしまった。
 今、その当時を振り返り思うのは、最終的に1年後には精神科へ入院することになるのだから、その時に救急車で運ばれておけばよかったよね…。なんて思う。それでも、今の私になれたかどうかはわからないのだけれど…。
 ただ、OD後の2週間は、それはそれは、摩訶不思議な2週間を過ごした。あれが『離脱症状』だったのだと思う。 毎日〝幻覚と幻視〟が起きていた。 私は元々からお花畑体質だったこともあったし、その当時はスピリチュアルなことに興味津々だったこともあるので、ただ単に〝わーーーーーーきれーい!〟だとか〝わーふっしぎー!〟だとか〝わーーおもしろーーい〟etc…で終わらせてしまった。そして、その不思議な現象はあくまで大量摂取後の幻覚にすぎないと思っていたので、それが、一部の界隈で超常現象として扱われていたり、覚醒的なものだと捉えられているのだと思うが、私にとっては、それが〝特別〟なことだとは思わなかった。 むしろ『ああ、こういうのが視えたりしたら、自分は特別って思っちゃうよね。』っていうように軽く受け流した。

 2度目のODの原因は、相方のSと別れることになった時だった。結果的に元さやに戻ることになったのだが、今思うと、最終的には別れることになったのだから、あの時、今みたいにきちんと別れられていたなら、私の人生、また別な意味で違ってただろうなぁと思う。
 それでも、その当時の私にはその術がわからなかった。それは、最終的にSとお別れすることになるまでの8年の月日の中で、私のメンタルが癒えたり強くなったことや、ネガティブになっている仕組みを知り、それらを回避ための知恵を得たからこそでもあるが、死んでしまうくらいの苦しみではあったけれど、ちゃんと別れることができただけでなく、今現在は、別れてよかったと思えるまでになれている。
 〝なんで、これができなかったのだろう?〟と越えられた今はそう思うが、あの当時の自分を思い出してみたら…できなくて当然なメンタルだったと思う。というより、様々な物事を勘違いし受け止めていたり、思い込んでいたこともあり、人並みにはできていなかっただけなんじゃないか…とシミジミ思う。 それに、それらを回避する方法や仕組みを知っていたからといって、あの当時の私にやり遂げられたのか…っといえば、出来なかったとも思う。それは、別件で試したことがあったが結果的に〝不発〟に終わった案件があったからだ。 そして、人への〝執着〟が過ぎてしまう体質というよりも、私の場合には〝依存・共依存〟な関係に陥りやすいタイプだったからこそ、不発に終わり、更に傷は増えていたかもしれない。
 ただ、もし、その当時に恋愛を通して、人への〝依存・共依存〟に決着をつけられていたとするならば、今現在の私は、もっとより良い人生を歩いていただろうと思うし、息子との関係性も今よりも早い段階で、いろんなことに気がつけたかもしれない。だからこそ〝時間は有限〟だということや〝巻き戻す〟ことは出来ないことも思い知っている。 だからこそ、今、私と同じように、もがいて立ち止まっている人たちに一度考えてもらいたいのだ。もし、現在の状況で自分自身でやりたいことがやれる状況であるなら、失敗してもいいから〝やりたい〟ことを先延ばしせず、行動に移してみてほしい。やってみようとしたけど、やっぱりできなかったでもいい。自分自身の身体と頭がしっかり働いている時間は案外短いし、ずっと元気でいられるかなんてわからないからだ。
 ただ、その、もがいている最中だからこそ勇気がでず行動に移せないのも解る。傍から見れば沼にいるように見えて危なかっしくても、本人にとっては、そんな場所しか知らないからこそ〝一番安心で安全な場所〟だと勘違いしているのも確かだと思う。その場所でしか身を守る術を持たない。その場所じゃなくても〝大丈夫だった自分〟を知ることができなければ、同じ場所を選んで当然だと思うのだ。
 自分一人で越えられないのが〝依存・共依存〟でもあると思うし、それが〝愛着の不具合〟に繋がっている由縁でもあるように思う。だからこそ、その場合には〝孤独なレース〟は向かないんじゃないのだろうか? だから、自分以外の誰かの支えが必要になるのだとも思う。 ただ、私の場合には、孤独な中でそれを越えることが自身の愛着の不具合をなんとかする最後の手段だったから、それを実行したに過ぎないのだけれど…。

オーバーだけど、こちとら必至

 2回目OD時は、丸1日眠っていた。その時は、まだ精神科のデイサービスに通っていたこともあり、なにかトラブルが起きたり不安になったりすると、電話相談をしていた。その時のことはあまり覚えていないのだが、Sと私が付き合っていたことは病院のスタッフの人たちもご存じだったし、別れたことで撃沈していた私がOD後に病院に電話したのか、Sがそういうことを話したのか…。その時も目が覚めた時、携帯電話で日時を確かめたら丸一日過ぎていた。そして、携帯電話の着信履歴を確認すると、眠っているはずの時間にどうやら私は電話に出てスタッフの方と話をしていたようだが、全く覚えがなかった。
 目覚めた後、デイサービス先の着信があったから自分から電話したような気がするが記憶は定かじゃない。 スタッフの方には、一応落ち着いて体調は大丈夫なことを伝え、前日に電話でスタッフの方と話をしたようですが、何を話したのか全く覚えがないこと伝えると、『しっかり受け答えしていたので、大丈夫かな』と思い、訪問することもなく電話を切ったことを教えてもらった。 だけど、私は全く覚えていなかった。
 いや、こういうことはOD以外にも実は身に覚えがある。昔、お酒を飲みすぎた時だ。 その時は、友人の家に泊まっていた時で、飲みすぎて寝ていていた私に、用事があったので寝ていた私を起こして、友だちが話かけたそうだ。私はちゃんと起きて冷静に受け答えをしそのまま寝たらしい。で、翌日、友人と話をしてる中で、友人と会話したことすら全く記憶がなかったということがあったので不思議だとは思わなかったのだが、さすがに、なんかそういうのは〝ヤバい〟よなと思うようになった(笑) 

 そして、3度目のOBは、4度目のODの数か月前だったような気がする。飲んだことは覚えているが、なんでそうしたのかという理由も覚えていなければ、その後どうなったのか記憶にない。ただ、飲んだけれど不発に終わったような気はする。
 ああ、そうだ。3度目のODの時は、減薬をはじめていた時だったかもしれない。減薬するにあたり、勝手に2種類の薬を減らしていて、その2種類の薬を一緒に減薬したことで、イライラしたり少しのことで切れやすくなっていたようだった。その後、診察時に減薬していた薬を1種類戻し、その後は安定していた矢先の4度目のODだった。

※減薬した薬剤についてはここではあえて触れません。私は、飲み忘れることがあるだけじゃなく、意図的に勝手に減薬したりしてたことも多々あり、それで失敗していたということを後で気がつきました。なので、減薬する場合には、必ず主治医の先生に相談をし行ってください。本当に危ないですし、それが希死念慮となっているケースもあると思います。この件に関しては後の章で触れたいと思っています。

 発達障害の診断を受けた頃から飲んでいた抗精神薬で飲み忘れていたお薬を勿体なくて捨てもせず溜めていた薬たち。めったに処方はしてはもらっていなかった睡眠薬が4錠あった。それとそれ以外に飲み忘れた薬と次の受診までに処方されていた薬を全部飲んでしまったんだった…。
 そのせいで、私は丸2日ほど自宅で眠っていたようだ。っていうか全く記憶にない。2日後の朝、親戚の姉が訪ねてくるまで、途中で水を飲んだ記憶もなければトイレに行った記憶もない。なんにも覚えていない。記憶にないのは初めてじゃないにしろ、さすがに〝怖い〟と思った。
 丸二日眠った朝、私の眠りを呼び覚ました者は、おとぎ話のような白馬に乗った王子様のキスではなく、近くに住んでいる親戚の姉がアパートに訪ねてきたチャイムの音でその眠りから目が覚めた。(推しが王子様に化してビューネ君みたいに囁いてくれたらかったのになぁ。なんつって)
 そんな冗談はさておき、私の眠りを呼び覚ました姉は、私の母に様子をうかがってきて欲しいと言われ、アパートを訪ねてきたのだろうと思われる。姉も携帯に何度か電話をしたようだが繋がらなかったようだ。だから、姉は訪ねてきたらしい。
 玄関のチャイムの音で目が覚めた私は、重い身体を起こし玄関に向かい、親戚の姉に事の顛末を手短に伝え、コンビニでリンゴジュースを買って来てほしいと頼んだ。数十分後、頼んだジュースが届けられ、私はそのジュースを飲みながら部屋を見渡してみると、無惨にもへし折られバラバラになった携帯を発見した。

 3日前の夕方から、沸々と湧き上がって止みそうもない〝怒り〟をとにかく一旦治めるため、貯めていた薬も含め自宅にあった薬を全部飲み干したのものの、それでもすぐに〝怒り〟は治まることがなかった。
 何かを破壊することで憑き物が落ちたようにおさまるかもとは思ったが、すでにその時には、ODをせずに済むように…と破壊行動を何度か試みたことがあった。 自宅にある、いらないお皿を割ってみたり、段ボールをパンチしたり、破いたり…。割りばしを折ってみたり…。それらの〝破壊行動〟は、自閉症のアンガーコントロールの方法の一つとして習ったことだが、正直言って〝怒りが沸点越え〟した状態には通用しない。イライラを回避させることはできるが、その〝怒り〟を抑制させるためだとどうやら有効ではなさそうだ。全員にとは限らないが、おそらくその〝怒り〟に対する対処法なんて、的を得ないからこそ、というか、怒っている人に対して〝的〟をあてたアプローチをしようとしても、本人が受け止められる状態ではないのだから無理なのだと思う。そして、大抵の人が受け止められないくせに、なんとかしようとする。
 当時はアンガーマネージメントやコントロールについての講座などもなかったわけではなかったし、増え始めていた頃だったように思う。だから、回避する方法は世間でいくらでも情報が手に入った。
 それでも、それらの方法ではどうすることもできない〝怒りの沸点越え〟を体験した身としては、身体拘束をし鎮静剤を打つくらいしか手立てがないってことは身をもって体験した。 だから〝怒り〟をちょっとしたことで抑制できる事柄は〝怒り〟でもないのだと私は思う。 そして〝怒り〟はどうすることもできない自己抑制の成れの果てのような気もする。自分自身でもわけのわからない行き場のない感情ほど、自己か他者どちらかの方向に向かうしか術がない。反らそうとしても、それは身体の働き、いわゆる反応というものだから仕方がないことになるのだろうと思う。簡単にいえば、コントロールすること自体大脳の役目なのだから、大脳がどんなに発達したところで、潜在的に怒りを貯め込みやすい人は、どんなに頭でわかっていても、何かがトリガーとなった時、それらは発動してしまう。 それが〝反応〟とか〝反射〟という機能が装備されているからだと思う。 
 だから『精神性』や『倫理観』を後付けで知り得たとしても、潜在的な物事を顕在意識だけでは抑えられないことは、人としてというよりも人も動物なのだということの現れのように思うのだ。だから〝怒り〟の発散は感情的だと世間ではおもわれがちだが、実は違うんじゃないかと私は思っている。それこそ『にんげんだもの』ということの証でもあるように思う。

 とりあえず、4度目のODを迎えるにあたり、怒りをおさめるための破壊行動を起こしたことで、最終的に後片付けをするのは自分自身になる経験をしたこともあり、元々面倒くさがりだったことが、それらの行為は私にとってあまり意味を持たないことを知っていた。それと〝怒りの沸点越え〟をしている状況でも、私のどこかには冷静な自分も存在している状況も知ることとなった。そんな冷静な自分も存在しながらも〝携帯電話をへし折ってみる〟新しい選択肢が頭の中で閃いたのだった。

『携帯を壊したところで、私にとって何の得にもならないし損にしかならない。それでも、こんな時だからこそ、携帯電話、折ってみればいいじゃない? こういう機会はもうめったにないよ…! ウヒヒ。』

 冷静な自分とは別な悪キャラの悪魔な己の囁きに負けてしまい、勢いもあり手でへし折ってしまった。想像していたよりへし折った感覚が体感として薄く感じ気持ちよい破壊とはならず、鈍い壊れ方の感覚が残ってしまっただけになった。怒りがMAXだったからだろうか…?

 その当時の私にとって〝携帯電話〟は人と簡単に繋がることのできる命綱のようなものだった。 だからこそ、その命綱になっていた〝携帯電話〟を一時的に使えなくすることで自分を追い詰めてみたことにもなる。その時の一次的な戦略であるにせよ、携帯電話をへし折ったぐらいでは、その時の〝怒り〟は治まることもなければ、結果的には、携帯電話が使えなくなることでの不具合が起きただけじゃなく、無駄にお金も使うことになったのはいうまでもない…。(苦笑)マイナス案件は掛け算したことでプラスに転じることはなく、負は倍増されただけだった。
 ああ、でも、オカシイナァ。眠剤も飲んじゃったし相当薬を飲んだはずなんだけど、なんでこんなにスッキリしているんだろう。 4回目だからなんだろうか? 眠剤も飲んだからある意味スッキリ眠ったことが良かったのかなぁ。前の時は相当ダルおもだったんだけどなぁ。 まぁ、とりあえず、薬の量的には死ぬことはないだろうとは思ったけれど、万が一の時のために…というより、元々かまってちゃんな性質だったこともあり、母やその当時一緒に暮らしていた内縁の夫状態の相方のSやその当時1番仲のよかった友だちのKどんに電話していたことを思い出した。
 きっとみんなきっと心配している。うん。間違いない。一刻でも早く無事なことを連絡するために、それぞれに電話をした。

 その当時、一緒に暮らしていた相方のSは、私がODをやっちまった3日前から仕事で関東方面へ出ていて、その日の昼頃自宅に帰宅する予定だった。 携帯電話の他に、一応自宅に電話はあったのだが、悪戯電話や勧誘の電話対策のために、すぐ留守電になるような設定をしていたこともあり、眠っていた私は気がつけなかったようだ。 留守電機能もあったので、留守電のランプがピカピカしていた。それを確認すると、Sと母が何度も電話をしていたようだが、すぐ切れてしまうので、電話のベルで起こすこともできない状況だったようだ。だからこその、私の眠りを覚ます者(親戚の姉)がやってきたのだよね。。っていうか、なんで、こんなことになったんだろう…。そう思い、3日前に遡り一人脳内反省会を行うと、顔が真っ赤になるよりも青くなる事態を思い出した。

 〝あ゛ーーーー!!! そうだ!〟 3日前といったら、2年勤めた会社を辞めた日だ。その日、仕事中に会社の人たちの話を聞いててなんかイライラしちゃって、しかも、会社を辞めるにあたって、事務処理がきちんとできていない会社の上司の対応にイライラして、結果的に人事部に電話して、その人事部の人の対応に対して、頭にきてしまって、ウエメセ説教しちゃったなぁ…アハハ(汗)。 そして、その〝イライラ〟が治まっていない私に対し、仕事で都へ昇ることになっていた相方が、イライラしている私に油を注ぐようなことして〝怒り〟に発展させ、更にあからさまな言い訳みたいなことをいって摺りかえられたから〝怒りの沸点越え〟になったんだった…orz っていうか、可哀想だな。 あの人何にも悪くないのにとばっちりくうことになったし…ワラエネー(苦笑)
 あの時、怒りに震えそれらをSに怒り狂いぶちまけている時、自分の頭に角が生え顔が般若になっている自身の顔がみえたくらい身体中が〝怒り〟の感情に支配されていた。そして、我ながらびっくりするくらいの大きな声を出し怒号をSにぶちまけちゃったなぁあああ…。 私よりも身体が大きいし怒ると不動明王みたいな顔になる任侠顔の相方が固まってたもんね。わはは。どうしょうもなく、散々な私だったな…(苦笑) 
 後に、Sが話してくれたのだが、その時、まるで、ご先祖様が降臨して怒られているようだったと言ってたっけ(笑) だから、いつもなら、怒っている私に対して、逆切れするSが何もいわず固まってたのか…(苦笑) いや、それくらい、何かが降りてきている錯覚を自分でも感じたくらいの〝怒り〟だったのは確かだ。
 
 それにしても、精神科の神様だとかカリスマだとかいわれている神田橋先生のいる鹿児島まで行ったり、自主企画で何度か行っていたコンディショニング講座で教えていただいてた事はちゃんとできてなかったって事なのかな?
 なんのためにメンタル強化やコミュニケーション力を高めるために2年近くかけてTCカラー習ったのよ私…。っていうか、自閉圏のためのアンガーコントロールもSSTも使えねー。っていうか、基本的にこの〝MAXな怒り〟は薬で鎮静させるほか手立てはないよね。
 ただ、私、車運転してたけど、心の中ではこのまま車をどこかにぶつけたいとか誰でもいいから…的な負の感情が湧き上がってはきたけれど、よく事故おこすこともなく、人を殺めることもなく、ちゃんと家に辿りつけたんだよね。それだけは褒めてあげよう。よく頑張った!私。
 その当時の事を、折に触れて思い出す度にそう思う。よくあれだけのことで済んだなと思い出す度にそう思う。だから、怒りにまかせて事件や事故を起こしてしまっている加害者の気持ちはなんとなくわかる。 ただ、私は加害者にはならなかっただけ。
 それは、自身が精神障害や発達障害者でもあったことで、私の場合には抑制されたようにも思う。負の感情を負の感情でおさめようとしたところで、被害は大きくなる。それは自死しようが人を殺めようが同じだ。すでにマイナスな生き方をしていたからこそ、負の感情をどう回避していくのかになる。ただ、それを身をもって体験できたのは、なんの宿命なのだろう…。
 脳内反省会をすると、様々な思いが頭の中を駆け巡り問題が山ほどでてくる。出た出た。そうやってすぐ頭で考える癖ついてるんだよな、私…。っていうか、何故、私はこんな風に考える人になってしまったんだろうか? 昔の私を振り返ってみよう。ああ、そうしよう。



 

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