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#010_ざざっと成育歴①之弐

生まれてから思春期までの私のこと〕

記録のような記憶

 幼少期の頃を遡ると良い思い出も覚えてはいるが、ネガティブな思い出はトラウマにはなってはいないものの、成長過程の人格形成に多大なる影響を与えられていたことをヒシヒシと感じている。
 全部の記憶を掘り起こしてみればいいが、さすがに全部は思い出せない。動画ではなくカメラで撮影したように、たった1枚の写真のような記憶の断片もあるからだ。記憶の断片の場合には、その一瞬にパッキングされてしまっているか、一瞬だけのサムネイルだけとなり、それに纏わる詳細なデータは、都合の悪い部分は消された状態で記憶されているかもしれないのもあり、遮れてもなかなか難しい。ただ、そういった記憶の断片が、ある時思いがけないカタチで動画へ発展することもある。
 ただ、いろんな経験をした今だからこそ、それをワザワザ引っ張り出して眺めてみることもないだろうとも思うようになった。 なぜなら、自分にとって必要な時というか必然的に思い出すことになったほうが、精神的に負荷がかかりづらいと思うことをシミジミ体感しているからだ。私の場合には、何かわからないけれども見えない何かに突き動かされている感否めず、ワザワザ古傷を思い出し昇華させたのだが、やりすぎたからか、メンタルの強化はできたけれども、逆に身体は弱くなってしまった。 だから現在はワザワザ掘り下げることもなくむしろ〝ほっといている〟状況だ。 なので、今回、言語化する〝記録のような記憶〟は、これまでの私を振り返る時の大きな手掛かりになっただろうと思われることをピックアップして言語化することにした。

交通事故
 私が覚えている一番古い記憶は2歳の頃になると思う。我が家は、その当時、兼業農家だった。父方の祖父母はもう他界していたこともあり、2歳に満たない頃から私は保育園に通っていた。人見知りもあまりしない子だったし、その時期でも親から離れてお泊りできるような子だったので、母方の祖父母に連れられて行った指宿への旅先でタクシーに乗車している時交通事故にあった。
 私は祖父の膝の上で助手席に乗っていたらしい。事故にあう間際、私が手に持っていたおもちゃか何かを落したのを祖父がとろうと私を膝に抱いたま前にかがみ、おもちゃへ手をのばした時に、ちょうど車がぶつかったんだそうだ。おかげで、祖父は背中をぶつけた程度ですみ、私はほとんど怪我することはなかった。
 私の記憶に残っていることが本当かどうかはわからないが、脳内に記憶されている動画には、事故が起きた後、祖父の膝の上に座ったまま、助手席から後部座席の方向へを振り返った時、右奥に座っていた祖母がガラスに頭をぶつけ目を見開き、脳震盪の状態で頭から血が流れている姿と真ん中に座っていたおばと従妹がガラスの破片で怪我していた場面。そして、指宿のどこかはわからないのだが、シュロの木がたち並んでいる広い道路と、片手を包帯でぐるぐる巻きになっているタクシー運転手のおじさんが、警察官の方に事故状況の説明をしている場面。そして、救急車の赤いランプ。それから、どこかの病院の真っ暗な病室で祖母が眠っている姿。ただ、その記憶が本当かどうかは検証はしていない。そして、その事故にあった現場を40年近く〝水俣〟だと勘違いしていたので、久しぶりに〝水俣〟に行った際、脳内の記憶にある場所と一致しなかったことで、記憶が違っていることに気がついた。 
 その後、両親と昔話をする中で、実は〝水俣〟だと思っていた場所が〝指宿〟だったことが判明した。ただ、私の覚えていた記憶はあながち間違いでもなさそうなのだ。 なので、一度〝指宿〟へ行ってみようかと思っているのだが、ここ数年様々なことが起こりすぎてお預けになっている。
 私は記憶喪失ではなかったが、解離性の人格障害のようなことが身の上に起きていた。健忘型ではなかったので、乖離している状況でも自身に起きていることはほとんど覚えている。ただ、時折何かがきっかけとなり〝人格障害〟のようなことが起きていた時期があったので、もうそういうのをいい加減治すというより、何を思い出す度に内側の自分に逃げることなく、一人の人格の中で気持ちを昇華したくて、時折バラバラになってしまう感情を統合させるために、過去の記憶を辿り勘違いしていたことがないかどうかを思い出すために、フラッシュバックを活かして過去を辿ることを数年前から試みみていたのだ。
 なぜ、わざわざ記憶を辿ることを行っていたかというと、他者では癒せないような物事が、思い出を辿ることだけで自分の中で自己解決できることがあると思っていたからだった。だから、本当は〝指宿〟に行けたら行ってみたい。それがまだ果たせていないのが悔やまれる。
 私自身、鈍感だと思っていたが、実はとってもナイーブだったようなのだ。過去のことはもう終わったことなので、解決済だと自分では思っていても、それらの記憶が自身の潜在的な部分を揺さぶることもあるようで、痙攣発作につながってしまうということも考えられるので、今は控えている。ここ数年でメンタルが強化されたのだが、メンタルが強化されたからといって、何かショックな出来事が起きた後、自分では大丈夫だと思っていても、身体では何かを感じてしまい〝痙攣〟が起きてしまっているように思うので、とりあえず、今は保留のままにしている。

海で溺れたのだけれど…
 交通事故以外にも大きな出来事はいくつかある。それらは今だにまだ覚えており、すぐ引っ張り出せる。前述の交通事故よりも、おそらくもっとネガティブ極まりない記憶が海で溺れたことだ。何歳の頃だったのかは忘れてしまったのだが、幼児期だったのは確か。
 当時、我が家には聴覚障害のある伯母も同居していた。その伯母が自宅から歩いて10分程度の波止場で、高菜についた泥を海水で洗うために出掛けるというので私はそれに着いていった。
 伯母は畑から採った高菜の泥を落とすために海水で洗うのをみるだけじゃなくて、手伝ったからなのか、何が原因かはわからないが、誤って私だけ海に落ちてしまったようだ。ただ、私が覚えているのは、落ちるきっかけになったことは全く覚えてはいない。
 海に転落後、海水中に自分がもがいている様子と、その後、船の碇のロープが海中で斜めになっていて、そのロープに足がひっかかっている自分を、もう一人の自分が俯瞰してみている映像だ。溺れているはずなのだが、私はちっとも苦しかった記憶が全くといいほど残っていない。苦しかった感情はほとんど覚えておらず、海面からセピア色の海の中へ光が差し込み、ロープにひっかかった幼い自分が波にゆられ揺らいでいる映像。ちっとも、怖さや苦しさといった感覚はなく、海の中で溺れている自分をだまってみて俯瞰してみているもう一人の自分を含めてセットで覚えている。
 その後、映像は切れ、自宅の縁側で目が覚めた時の縁の天井の映像だ。確か、近所に住んでいた親戚の兄や姉たちがそばにいたような気がする。が、これまたぼんやりした記憶なので定かではない。

※下記の「詩」は、海に溺れた時のことを思い出し、はてなブログ『私の暮らしの忘備録(2017年5月25日)に掲載している「詩」です。

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「感情も何もない色褪せぬ思い出」

キラキラと輝くお日様に
照らされる水面が
キラキラと輝き

眩し過ぎて
瞼が閉じてしまうと
風と共に潮の香りが漂い

幼き頃の思い出が
瞼の裏でざわざわしはじめ

いつの間にか気づかぬ間に
息が止まっている自分に
気づく時がある

まだ幼かったあの日
私は叔母と海に行った
何かのはずみで
私は海に落ちてしまう

気がついた時には
もう1人の自分が
海の中で泣きながら
もがいている。

それを私は
まるでテレビでも
みてるかのように
息を飲んでみつめている

もう40年近く前の出来事を
私はまだ覚えている

感情のない
ただの動画と
鈍い音だけの色焦ることない
今でも不思議な思い出

2017年05月25日

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 ただ、一番近しくしていた親戚の姉と私が海で溺れた話をしたことが何度かある。 親戚の姉いわく「あの時、千晴は死んだと思った。でも、息を吹き替えしたから安心した」といわれたことがあった。それでも、私にとっては自虐ネタのような記憶として残ってしまっただけだった。
 ただ、ここ数年、思春期のやり直しのようなことが起きていた時にわかったのだが、私が幼児期に海で溺れたことを母が知らなかったことだ。
 ここ数年の自己回帰のために何度か母と昔の話をする中で、私が幼少期に海で溺れたことは、誰にも聞かされてなかったようでとても驚いていた。というか、私は親は知っていることと思っていたのだが、実の娘が死ぬ目にあっていたことを最近まで全く知らなかったそうだ(苦笑) だから、なんだか実の母親なはずなのに娘の私を大切にしてくれていない気持ちが拭いきれなかったのは、そういった出来事も少なからずは関係しているように思う。
 あくまで、これは私の想像でしかないのだが、当時、そういう事故が起きたことを母が知ってしまったとしたら、そのまま聴覚障害の伯母と共に住むことを許せていただろうか?
 私が海で溺れ一時息をしてなかったのに死なずに済んだことで、その出来事を知り得た人たちの記憶には残っても、大したことにならなかっただけだ。でももし、あの時、私が死んでいたら、両親は伯母との生活を続けられていただろうか? そして、ただ溺れただけで事なきを得たけれど、自分の娘が命の危険にさらされてしまったことを、母が知らなかったからこそ、私たちは今の今まで家族でいられたのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、ダスティンホフマンとトム・クルーズが共演している「レインマン」という映画のことを思い出した。その映画は、自閉症スペクトラムでサヴァン症候群を伴う兄と年の離れた弟役の物語だが、その映画の中で弟が赤ちゃん時代に、自閉症の兄があやまって、弟を怪我させてしまうことになったことから、兄は施設に預けられることとなり、弟は兄がいることを大人になるまで知らされてなかっただったか、兄がいるのは知っていたけれど大人になるまで会ったことがなかったか…のような場面ががある。
 その場面に自身が体験ことを重ねてみると、娘が海で溺れ一時的ににでも気を失っていたことを両親が知ることになったならと思うと、私には出来ないし怒り狂ってしまったかもしれない。 母がそれらのことを知らなかったことがわかったことで、幼い頃から長年感じていた、拭いきれない〝不全感〟が少し紐解けたような気がした。 特にここ数年、家族間で何か問題が起こるたび、私の裡側から浮かび上がってくる両親に対する〝不信感〟や共に湧き上がってしまう〝静かな怒り〟はこのことが原因だったのかもしれない…と思うと、幼い頃からずっと握りしめていた呪縛から解き放たれた気持ちになった。 だから、生まれ育った18年も過ごした地元を、ちっとも好きになれなかったのはそういったことも原因の一つなのかもしれない。
 
海で溺れたけれど、死ぬことはなかったことで大事になることはなかったことは、昔だったということだけでなく田舎特有のことでもあるように思う。私の場合には海に落ちた原因はわからないが、伯母がわざと私を海に落したワケではなくても、実の親がそのようなことを知らなかったなんて、信じられない。
 自分のことだけではなく、田舎の場合、軽犯罪などはとくに隠されやすいように思う。ただ、そういった小さな犯罪をなかったことにせず、対処していくことが大切だと思うのだが、結構そのままにされて育ってしまう人が多い。発達障害の有無に限らず触法問題に対しては特にそう思う。そういった小さなことが、後々大きな問題となってしまい取り返しのつかない事態になってしまってる事例が顕在化してしまっているが現在のようにも思う。

落ちたことは何度もある
 海で溺れた記憶以外に、私は同じ場所で2度落ちたことがあり、1度目の時は額の髪の生え際のど真ん中の部分を2針ほど縫う怪我をした。2回目は海で溺れることになった伯母がこれまた関係しているのだが、私が幼稚園くらいの頃だったと思う。元住んでいた実家は少しだけ高台に建っていたので、道路から1メーターに満たない細い道を歩かないと家まで辿り着けない。しかもその道は道路から2メートルみたい高さな位置に道があった。しかも、その当時まではガードレールもなかった。
 その道に伯母が石垣に何かを干している時、伯母の後ろを私が通った瞬間、伯母は私の気配に気がつけず、後ろに下がったことで、私はお尻で飛ばされ道下の畑に落ちてしまったのだ。伯母は耳が聞こえないしその時集中していただろうから、私が後ろを通る気配を感じなかったのだろうと思う。縫うまでにはいたらなかったように思うが1度目に怪我をした場所と同じ場所を怪我をしたのだった(笑)これは、まだ笑えるほうだ。1度目のほうは、正直ワラエナイ。
 1度目は海に溺れた年だったか、翌年だったかになると思う。1度目に落ちた時は、何を思ったのか、そのガードレールのない2メートル高さのあるあぜ道の端っこを目をつぶって歩いてしまったことで落ちた。しかも母の目の前でだ(苦笑) 母は弟をおんぶしていたので、私を止めることができなかったそうだ(苦笑)2メートル下は畑だったので、大事にいたらなかったのだが、2針くらい縫う怪我をした。悪魔の2歳児と言われる時期だったと思われるので、その時期の子どもの突拍子のない行動は、大人の想像を遥に越えることがあるので要注意だなぁと自身の体験を思えばシミジミ思う。母の肝を相当冷やしたと思われるのだが、ある程度の年齢を重ねた時

私「あの時なんで助けてくれなかったと?」

と母を責めたことがある。その問いに対して母は

母「弟をおんぶしてたから助けられなかったし間に合わなかった」

と答えたのだが、渋々納得したようなしなかったような気持ちでその時は終わっていた。ただ、今改めて考えてみると『いや、絶対助けるなんて無理だった。うん。』と完結できるし、親になった身の上だからこそ、母が私を援けなかった意味も今なら腑に落ちる。
 ただ、そういう行動に至った理由が弟にヤキモチを焼いての行動だと仮定するなら『オラ、サイコパスなのかしら…(恐)』なんていうことも想像したこともある。 もし、そんなことが理由なら、やることが半端ないし可愛くない。無邪気にもほどがある。これぞ〝邪気〟とか〝魔が差す〟ってことなんじゃなかろうか?っていうか2歳代で?なんても思う。
 他に考えられることとすれば、どちらかといえば、好奇心旺盛な子どもだったので、サーカスの綱渡りみたいなことをマネして端っこを歩いてみたかっただけなんだろうなぁと思ったりもする。その当時の自分の気持ちは覚えてないが、できれば後者であってほしい。
 こうした自身の体験を振り返って思うことだが、発達障害の有無に限らず、大人が想像もつかない摩訶不思議な行動を子どもが行った時、怒るより先に『なぜ、そういった行動をしてみたかったのか』は聞いてみたほうが良いようにも思う。子どもには子どもなりの、考えがあっての行動でもあると思うからだ。そういった理由も聞かず、頭ごなしに怒ってしまいその子から溢れた閃きや滲み出た未消化の感情を握りしめたまま大人になった時、そういった些細なことが後に手掛かりになることもあるかもしれないからだ。そして、そういったことが、握りしめていた未消化の感情の〝根っこ〟であるかもしれないようにも思う。できれば、未消化の感情は早いうちに解決しておいたほうが本人にとっても周囲にとってもいいように思う。だからこそ、幼児期の記録は結構重要だなぁと思ったりもする。
 

フラッシュバックを活かす
 過去を振り返り記憶を辿る作業は大切な時もあることは、障害が重度域の息子と過ごしているからこそよくわかる。 記憶は退行してもその退行する現象は、おそらく記憶を新しい記憶に書き換えたり〝大丈夫〟だという確認作業でもあるのだろうと自身も体験しているからか強く思うようになった。
 たとえ、ネガティブな記憶がポジティブな記憶に書き換わることがなくても、嫌な記憶が〝大丈夫〟になることで、その記憶がより精神的な血肉になるようにも思う。というか、私は40を越えた今、確信を得たように思う。
 息子は、自閉圏でもあるからか、私の子どもだからか、突拍子もない時に、昔行ったことのある場所に〝行きたい〟と要求することがある。そんな時はスケジュールを立てて行ける限りはなるだけ行くようにしてきた。
 過去に行ったことのある場所に連れて行くことで、本人なりの気がかりなことの謎がとけたり気がすめば、繰り返し何度も〝行きたい〟と要求しなくなるのだ。不思議と。 
 そして、回顧することで得られることはポジティブなことだけじゃない。知的障害が重度域でも記憶力が人並み以上のタイプな場合には、都合よく覚えていたいことだけが記憶に残っているわけでもないんじゃないかと思うのだ。記憶力がたけているからこそ、端折れない脳みそのタイプの個体の場合、発達していく過程の中で認知が伸びた時、記憶の断片がそれぞれに繋がってしまうことで、ぼやけていた事柄の全体像がみえることからどういった意味だったのかがわかった時、それがトリガーとなって、良いことも悪いこと全てがフラッシュバックしまうことを脳内だけで再度味わうことになっているのではないだろうか?と私は思っている。というか、私の場合のフラッシュバックはそうだ。
 フラッシュバックはフィードバック機能だと思っているのだが、それを私は好きなことに活かしている。 それはどういったことかというと、何度か繰り返し聞いたり見たりすることで、脳内に長期記憶されると、自分が好きな時に好きな動画や音声を機器を使うことなく聞いたり見たりすることができる。見えるっていうのは、実際目の前に見えているわけではなく、脳内で画像が再生されている状態だ。おそらく、自閉圏の人たちにはそういうタイプの人達が多いような気がしているが、どうだろう?。
※私は、ハッキリと自閉症スペクトラムといった確定診断はされてない。ただ、歴代主治医の中には、広義の意味でなら自閉症スペクトラム群に入るだろうといわれたことはある。というか、現在は〝広汎性発達障害〟っていう診断がついてるのだが、この診断名は、広義の意味での障害名になるのだろうか?いまいち、この障害名の意味が理解できていない。今度主治医に聞いてみようっと…。

 記憶を辿る作業は自身にとってポジティブなことだけならいいのだが、ネガティブな思い出に辿り着いてしまうことで、不具合が起こる場合もある。それが、結構厄介だなぁと思う。それらを自分なりに上手く回避したり、昇華できるなら良いのだが、なかなかうまくいかない人のほうが多いのではないだろうか? だからこそ、ネガティブなフラッシュバックが原因となって引き起こされてしまう〝問題行動〟もあるように思うのだ。
 我が子の場合には、それが〝行動障害〟というカタチで表出してしまっているように感じはじめたのは、息子が中学生の頃だが、その時は半信半疑だった。だからこそ、再び一つ屋根の下で暮らそうと思ったのだ。そして、その勘は強ち間違いでもなかった。 息子の場合知的障害は重度域で自閉症スペクトラムのカナータイプだ。話し言葉を持っていないわけではないが、その場に応じた言葉を言語化し発語することは難しい。本人の中で理解できていても、理解できているかどうかさえわからないことも多い。それでも、共に暮らした月日の中でわかったことは、周囲が思っている程、理解できていないわけでもなければ、内面がないわけでもない。むしろ感受性は豊かだが、それらの表出方法や言葉として発語することが難しいそれだけだ。それなのに、〝怒り〟でしか表現できないというより、そういった方法でしか伝えられる術を持たないだけで〝行動障害〟といった言葉で片付けられていたように感じるようになった。 重度の障害を持つ息子と共に暮らしているからこそ、行動障害は〝障害の特性〟ではなく、特性があるからこそ自ら表出する術を持たないことや自身を意識的に納得させるような術を知らないからだけのように思う。
 怒りの抑制は健常域の人だって処理するのは難しい。だとするなら、障害のある人たちで意識的にそれらの処理を行いづらい人たちなら尚更、感情コントロールなんて難しい。だからこそ、負の行動で表出させるしか気がついてもらえないという体験の積み重ねが負の連鎖になっていくようにも思うのだ。
 
日進月歩だからこそ、そこで諦めたら試合終了デス

 自身の成育歴から少しずれてしまう内容になるが、上記の内容を綴りながら、鎮めていた静かな〝怒り〟が沸々と湧き上がってきたので、ここに綴らざるを得ない衝動に駆られてしまっているが故に、ズレたことになるが一旦吐き出しておくことにする。

 自閉症スペクトラムの特性は最近は変わったようだが、昔は〝社会性〟〝コミュニケーション〟〝想像力〟の欠如といわれていた。そういったことから、自閉症スペクトラムの人たちは〝内面がない〟といわれてきた。そして、私もそれを真に受けていた時期もある。
 でも、我が子だけではなく、障害の軽重に関わらず、むしろ内面が豊かな人のほうが多いと肌身で思うようになった。だからこそ、一部の医師や支援者又は保護者や当事者でさえ、そういったことをいう人たちがおり、そういった一部の意見が誤解に繋がってしまっていることに私は憤慨している。
 だから、10年程前に受講した講座等で、何度も聞いた〝想像力がない〟という特性は自閉圏の常識だったし、私も一時期まではそう思っていたが、むしろ自閉圏の人たちを精査してきたあらゆる支援者や専門家の人たちの〝想像力のなさ〟に、今現在ビックリしている。
 健常域の人でさえ、言葉にならない思いを人に伝えることができず〝問題行動〟を起こす人だっている。であるとするなら、障害がある人で〝問題行動〟を起こしてしまう人の場合、障害の軽重に関わることなく本人の中にある〝理解してもらえない苦しみ〟又は〝事情があって言いたくてもいえない物事〟を抱えた人たちは、ただただ、他害や問題行動をするほかなかったのかもしれない。
 自分以外の誰かに己の中にあるモヤモヤしている物事をわかってもらえない苦しみや共感してもらえない歯がゆさはどんな人も持ち合わせていると思うのだが、障害があることで、本人の内側だけの問題にしてしまっていたことが巻き起こしてきたかもしれないのあるなら、これは如何せん、関わっている周囲の私たちがそのことに気つかなければ、いつまで続くかわからない障害を持ったまま、自分なりの自己抑制をすることや周囲が調整することもできないじゃないかと思うようになった。それは、息子と暮らしてきた数年の中で気がつくことになった。そして、長年、自閉症スペクトラムや知的障害といった名称や専門家の説明や著書に書いてある特性を信じて疑わなかった自分自身にもあきれることとなった。
 気がついたからこそ、今までのやり方で変えられなかったなら、気づいた人たちがやり方を変え又は価値観を変えることでしか、そういった特性を持つ人たちと共に暮らしていくことなんて、無理なように思う。
 理解するということは解っただけではダメだった。解ったなら、失敗をみこした自分たちなりのやり方を模索するほかないと思う。教科書通りの文言や方法論のひな形をなぞるだけで済むなら、それは障害といえるのだろうか? 
 個体差があって当然なのが〝人間〟なのだと思うのだが、いつの時代から個体差のある人に規格というものができたのだろう。そんなことを強く思うようになった。だからこそ〝普通〟というカテゴライズがより生きづらさという生産性を高めてしまっているのではないだろうか?ということを、世界中の人たちに問いたい。
 


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