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#007_はじまりのゴング

はじめての大地震

 今から4年前の2016年4月14日。熊本地震で被災した。
 母に口酸っぱく片付けろと言われていたのに、なかなか片付ける気持ちが湧き上がってこず、もう必要なくなった物で溢れかえっていたアパートの中は、1度目の大きな地震でかなりぐちゃぐちゃになってしまった。
 地震が起こる随分前から、母に嫌になるくらい〝片付けろ光線〟を送られ続けていたのにも関わらず、あの時の私は、わかっていても片づけられなかった。
 その当時は、思春期時代に不発に終わっていた本当の意味での遅れてやってきた反抗期中で、母に対して拗ねていたからだと思っていたのだが、今思うと、〝地震が来たら必然的に片付けることになるからといった〝啓示〟を身体が教えてくれていたのかもしれにゃい(なんちゃって)
 その当時は、元パートナーと二人暮らしだった。相方(以後Sとする)は仕事で県外へ仕事にでていてアパートには私1人だったこともあり、地震が起き避難所へ行くかどうかは後で考えることにし、彼が自宅へ戻るまで自宅で散らかった部屋を片付けながらでも待てばよかったのだが、アパートの1階の我が家でも震度6強のあの揺れを体験してしまったからこそ、その場にとどまり1人で待つことは怖くてできなかった。

〝ましてや、片付けなんかしてる最中に万が一怪我をしたり、死にかけてしまったら誰も気がついてくれないじゃないのよ…。〟

 なんてことが頭に浮かび、とにかくどこかの駐車場に車内で一旦避難することにしようと思いアパートの外に出た。 すると、同じアパートの人たちも避難をはじめる人ばかりだった。 避難する前に、近所の人たちと少しだけ話をしている時〝ブレーカーを落としたほうがいい〟と教えてくださったので家を出る前にブレーカーを落とし、ガス栓を止め、財布のはいったバックをもち、一旦車に着の身着のまま車に乗りこみ自宅を離れることにした。
 慌てて車に乗り込んだこともあって車を動かそうとした際、お風呂上りでノースリーブ姿の自分に気がつき〝ハッ〟とした。 自分がノースリーブ一枚だったことに気がついたからだった。 いつもは鈍くさい私だが、この時ばかりは私の何かが研ぎ澄まされていたのか、ふと車内に上着を乗せたままにしていたことを思い出した。
 運転席から後ろを振り後部座席に目をやると、過去の忘れん坊でめんどくさがりでドジな私が車内に乗せたままにしておいた(忘れていたともいふ)『からし色のスプリングコート』が置いてあった。

〝私の忘れん坊力しゅごい!〟

と自画自賛しながら、コートを羽織り自宅から少し離れた近隣のコンビニへ移動した。

 その日は、仕事で上京していたS(当時のパートナー)が翌日帰省する日だったからか、それほど不安も感じずパニックになることなく意外に落ち着いていた。 Sは仕事中だったし、地震が起きたことで電話回線がパンクしていたのでなかなか連絡がつかない。 とりあえず、両親や友だち、近隣に住む親戚等に連絡をとり安否確認をしつつ、SNS上での知人には『被災したが怪我もなく無事』と文字情報だけで知らせた。 そのうち、Sとも連絡がとれ互いが怪我もなく無事だという確認ができた。
 Sは地震が起きなければ、翌朝早く自宅に戻るとのことだったが、地震が起きたことで予定を変更し、夜中に自宅に戻るとのことだった。 普段の私なら夜の10時台には寝ている時間なのだが、はじめての地震で興奮状態だっただけでなく、大地震後、数分に1度のペースで震度3~5弱程度の揺れが頻繁に起きていたこともあり緊張していたからだと思う。 なかなか眠れなかったので、普段、夜は聞いていないラジオを聞きながらSを待っていると、日付が変わる間際に避難していたコンビニ前で落ちあった。

 慌てて自宅を離れたこともあり、必要最低限の荷物だけしか持ってでていなかったので、ある程度の期間、車中泊でも生活ができるような物資をSと一緒に取りに戻った。 現アパートに引っ越すまでに、数度の引っ越しをしたことがあるので、以前に比べればそれなりに物は少なくなっていたし地震が起こる前にも、それなりに断捨離をしてはいたのだが片付けることが下手でまだまだ物は多かった。
 物が多かったことで玄関に棚を後付けしたりし、靴箱の上を物置化していたことが災いとなって、一度目の地震で靴箱の上に置いていた物が棚ごと雪崩のように崩れ落ち、玄関からは出ることが難しく慌てていたこともあって庭から逃げた。
 ただ、地震が起きる2年前の台風以前だったなら、防犯用の壁があったので壁越えをして逃げることはできなかったのだが、その時の台風で防犯用の壁は風に飛ばされてしまい壊れていたことを、不動産屋へ伝えたのにも関わらず修理されることはなく壊れたままになっていた。 それが〝幸い?〟といっていいのかわからないのだが、そのお陰で裏庭側から逃げることができた(苦笑)。
 何かの情報番組で知り得た情報の中に、地震時には、扉が歪んで開かなくなってしまうこともあり、その場合は、ガラスを割らないといけなくなり、それで怪我をすることもある。という情報を知っていたこともあり〝どこか一か所だけでも鍵を施錠しないままでおいたほうがいい〟といったことを思い出したので、我が家には盗まれても困るような高級品がなかったこともあり(貴重品はすでに持って家をでていた)、庭側のガラス戸のカギを空けたままにして、迷うことなく一旦そこから出入りをすることにしていた。
 一応、一度、玄関側からドアを空けることを試みたのだが、停電してみえづらかったこともあり、雪崩のように崩れた物で溢れかえっていたので、再度庭側から壁越えをし部屋にはいった。(我家なのに盗人気分。) 二人でそれぞれに自分に必要なものをバッグにつめている際、2度目の強い揺れを体験した。
 1度目の時と同じように、地面から〝ドンッ〟と縦に突きあげられたような揺れの後、横揺れがはじまった。 地鳴りする音と同時に、建物がガタガタと揺れ動いていた。 揺れが酷すぎて移動することができず、自分がまるでビデオカメラにでも化したように真っ暗になった室内の光景をみていた。
 茶棚や冷蔵庫などの扉が揺れと同時に開いたり閉じたりしながら、棚の中から皿やコップが飛び出し、冷蔵庫にはいっていた食品でさえ、どんどん音を立てて何らかの物体が落ちていくのがみえる。
 〝ガチャガチャ〟〝ドタドタ〟〝ガンガン〟 様々な音が重なり部屋の中に響いている。そして、毎日目にしているアパートの垂直な壁が、左右に揺れ斜めになり再度元の位置に戻る。
 そんな繰り返しの数十秒の映像が、スローモーションのように今だ脳内に記録されている。
 そして、1度目の揺れより2度目の揺れは、更に強く長かったようにも感じた。 私は元々高所恐怖症でジェットコースターは特に苦手だ。ただ、昔1度だけ友だちにつきあって乗ったジェットコースターが怖すぎて、出したことのない、『キャー――――!!!』という声が出た(笑) 
 そして、それらの出来事を五感全てで体感した生身の体験は、今尚、私の記憶の中に息を潜めながらもしっかり残っている。残っているというより息づいている。
 揺れが収まった後、再度、急いで毛布や数日分の着替えなど必要なものをバッグに詰め込みその場を後にした。そして、車が普通乗用車のワゴンタイプだったこともあり、その日は避難所にもいくこともなく車中泊をすることにした。

 当時のパートナーのSが戻ってきたことで〝ほっ〟とし、なんとか眠りにつくことができた。 それでも、初めての大地震で緊張していたのか、隣で大きな鼾をかき寝ている相方を横目に、私はいつもよりちょっと早めの早朝覚醒で目が覚めた。 普段から夜10時までには寝てしまう私でさえ、人生初の震度6や7の地震を体験したのだ。
 理科の授業やテレビの中でしかみたことのなかったあの激しい揺れを、1度ではなく2度も体験してしまい、ましてや大地震後も小さな振動が数分に1度何度も何度も起きていたのだから、緊張して当たり前だったと思う。

 早朝覚醒するのはいつものことだが、それよりも少し早い時間に目が覚めた。朝4時前頃だっただろうか? 車内が外からみえないように新聞紙やタオル等で覆い目隠しをしていた。その隙間から、真っ暗な車内に赤い光が漏れていたので何事かと思い、車のドアをそっと開け外へでてみると…。

 私たちが1次的に避難していた場所の目の前は国道だった。停電で真っ暗になっていた国道3号線が消防車や救急車が途切れることなく、連なりゆっくり走っており真っ赤なライトで照らされていた。 まるで、映画『フィールド・オブ・ドリームス』の最後の場面のようだと思いしばらく眺めていた。 今思えば、大好きなジブリ映画の『風の谷のナウシカ』で、怒ったオウムの群れが一列に並んで走っている場面にも似ているかもしれない。 これが訓練や良いことでの景色なら、私は心の中で小踊りしていただろうと思う。だけれど、私の心は踊らなかった。 むしろ、言葉にならない〝悲しさ〟と〝まさか〟という事態が起き、今の今まで他人事だった〝地震〟が他人事ではなくなったのだ。
 その光景をみたことが、自分自身が被災者となった自覚をした瞬間でもあったように思う。片手に持っていた携帯電話でその様子を写真におさめておこうかな? ということが一瞬頭によぎったものの、逆にショックすぎて私にはできなかった。それらをしばらくぼんやり眺めた後、現在の状況を知るために車へ戻りラジオのスイッチをいれた。その日までなんとなくぼんやり聞いていたラジオがそれ以来グッと身近な存在になった瞬間でもあった。

もう一度、息子と暮らす日のために…

 地震が起きた当時の私は、福祉就労を卒業し、パートにはなるが再度社会復帰をし丸2年勤めた会社を辞め、また別の会社に入社したばかりの頃で、また息子と共に暮らす日々を迎えるまでの準備期間中でもあった。
 新しい職場や新しい暮らしが始まり、漠然とした不安を抱えながらも私なりに新しい日常へ変化していく中で、幼い頃からの出来事が良い意味で、走馬灯のように思い出される毎日を過ごしていた時でもあった。
 一度、社会からドロップアウトし数年はかかったが短時間のパートで、もう一度、一般就労というカタチで社会復帰ができ、それは、私の中で自信になっていた。 
 それだけでなく、頑張りすぎると寝込んでしまう体質の自分と上手く付き合うこともできるようになっていたり、なんでも一人で抱え込んでしまう体質だったことも1度目のドロップアウト後からは、自分1人で抱え込み、やってしまおうとせず、〝誰かに頼ってみる〟ということを練習していた。
 それに、籍はいれてはいなかったが、お互いの両親に公認で、Sと一緒に暮らしていたこともあり、改めて、息子とまた同じ屋根の下で共に暮らそうといった思いが芽生えはじめていた頃でもあった。心身の状態が落ち着いていたこともあったし、体調不良が起きても、短期間でたて直すことができるようになっていたことで欲が出たのだろうとも思う。
 その当時息子は、まだ支援学校中学部だった。入所先から学校へ通学をし、月に1~2度、自宅に帰省するといった生活を行っていた。 熊本地震が起きた頃は、まだ入所施設で生活をしていたのだが、息子がいた施設は阿蘇地区ではあったが、震源地から少し離れていたこともあり、大きな被害はなかったようだった。 なので、私がしたような大地震を体験することなく済んだのは、ある意味良かったようにも思う。
 地震が起きた翌日、入所先の施設の被害状況や息子の安否確認と自分自身の状況も知らせるために施設へ電話をした。その電話で、その施設が避難所でもあったことを知ることとなり、尚更安心しホッとした。 そして、地震後の次の日は週末でもあったのだが、春休みに長期で帰省していたことから週末は帰省予定にしていなかったので本当に幸いだったと思う。
 とにかく、私の場合、一見不運続きのようにみえるが、結果的に〝最悪のパターン〟にならず、難を逃れてきた人生はここでも発揮されたようだった。〝運〟だけはいい。いや、ホント。

 息子と再度暮らしてみたいと思うようになったのは、地震が起きたことが理由となったワケではなかったが、結果的には、熊本地震を体験したことで、長期的な将来を見据えたライフプランを考えさせられることにはなったように思う。
 なので、再度一つ屋根の下で暮らす方向で生活スタイルを見直し、その新しい生活に変える準備期間の間で、自分自身の悪癖をなんとかしようと思い自分が良いと思ったことは、できるかぎり様々なことに取り組んでいた。  メンタルの強化というより、自分自身でわりと鈍感で何も考えていないタイプだと思い込んでいたのだが、結構傷ついていてトラウマをなんとかするためにサバイバルが過ぎて更にトラウマとなっているマトリョシカ状態な自分自身のためでもあった。公的なカウンセリングをうければ良いとは知っていたが、その当時はそれでは満足できなかった。
 私が本来求めていたのは、自分自身でこれまでに握りしめていたトラウマやネガティブな自分を対峙したり、癒したり、苦手なコミュニケーション力を養いたくて民間にはなるが、TCカラーというカラーボトルを使ったセラピスト養成講座で資格をとったりもし、メンタル強化や自身を癒しも取り組んでいた。
 そして、当時は、あまり人には伝えてはいなかったのだが、霊媒体質な自分もなんとかしたかったこともあり、スピリチュアル系や自己啓発系、又は占い系の人たちにも相談するなどしていたこともあった。のだが、それらに偏ることなく、一応、医療の分野では、オカルトが得意な精神科医のカリスマといわれる神田橋先生の診察も折に触れて受診もしていた。なので、一応
様々な方面から自分癒しのアプローチを数年かけて行っていた。
 それらを行っている最中に、本当に自分が望んでいたことに気がついたり、過去にやり残してきたことを思い出すこととなって、自分が思春期の頃に諦めた〝夢〟にうっかり気がついてしまうことになった。
 そうしたことで、熊本地震が起きる6日前の4月9日。音楽のイベントを開催したのだ。しかも、私が発起人。それでも、その当時、仲の良かった人たちに協力をしてもらい終えることはできた。ただ、イベント1ヶ月前まで恙なく順調にすすんでいたように思えていたのだが、最後の最後でいろんなことが起きた。というか、今思うと〝鼻くそ〟みたいなトラブルで一喜一憂し、頭がぐちゃぐちゃになるくらい悩んでいた自分が懐かしい。それでも、失敗のような…でもなんとか成功した音楽のイベントをなんとか無事終え、地震前に開催できたことは奇跡のように思えた。
 最終的には後味の悪い終わり方のイベントにはなってしまったのだが、それでもやりとげることができてよかったと思った。 続けていくことに意味はあると思い、次のイベントの開催日のことも考えてはいたのだが、その日までのトラブルがあまりにもショックだったこともあり、会場を片付けながら「これが最初で最後になるだろうな」とそういった思いで胸がいっぱいになっていた。
 で、その時の予感は的中し、結果的に一度キリで終わってしまった(笑) だからこそ、あれから4年経った今でも1度きりで終わった幻のような一日は、苦い思い出ではあるけれど、それでも、やってよかったなと思うことにはなった。
 あー、でもさー、その日よりも一番楽しかったのはそれまでの準備期間だったよなぁああ。っていうか、その後、ほとんどの人と縁が切れた状態になったので、みんなが今現在どうなっているのか一切ワカラナイ(苦笑)。
 あの時、自分の何かを吹っ切りたいというか、前に進むためのキッカケとなればいいなと思った『大人の文化祭』みたいなイベントだったのだけど、私は、あれから随分大きなマイレボリューションが起きてしまったけど、あの当時のメンバーは、その後どうなったのだろう…。元気に暮らしているのかな? あっ。まっいっか、他人事だし。と、とりあえず、幸せな気持ちで暮らしとらすことを祈っておる所存デス!
 
 と、まぁ、この様に、過去を振り返れば、たった一つのワードが入口となり様々なことが勝手に思い出される。 それは、普段から脳みそが忙しい体質だからでもある。何かがトリガーとなり、様々な出来事が走馬灯のように思い出されてしまう。フラッシュバックというヤツだ。
 それでもあの当時の私は、相当弱かった。ワタシは私なのだけれど、今の私とはまた違う次元で生きていたし、その当時の自分を振り返ってみると、もう中年も迎えたいい大人なのに、顔から火がでるくらい恥ずかしいことを真面目に懸命にやってて〝お〟がつくくらいバカだったなぁーと思う(笑)それでも、そんな自分が〝愛おしい〟とも思えるようになった。

 私が私自身を越えることを望んではいたけれど、まさかまさかの想定した以上の人格に仕上がってしまった。しかも、なんで、私、イマサラ気がついちゃったんだろう。と思うくらいの変体ブリ。それでも、現状の仕上がりな自分に〝変体〟できたことは良かったとしか思えない。
 なぜなら、熊本地震からの復興を感じ始めた矢先に、再度訪れたのが一部ではなく世界中な全部が新型肺炎でパンデミック状態となり、日本においても全国的に外出自粛要請となった。そして、外出自粛要請が緩和されたと思っていた矢先、再び広範囲に渡る災害が起きた。
 熊本地震後にも数々の災害は起きてはいたが、令和にはいり、コロナ禍も自然災害もピンポイントではなく広範囲で起きており容赦ない。それによる信じられない2次災害のようなことも起きている。 だからこそ、メンタル強化された私に仕上がったのは不幸中の幸いでもあったのかもしれない…と至極思う。 きっと、昔の私のままならば〝生きる意味〟や〝無力な自分〟に対して〝がっかり〟するだけではなく死ぬくらい落ち込んでいたことになったと思う。っていうか、迷うことなく天へ飛び立っていたと思われる。うん。 元々私はサバイバル体質だったことで人よりいろんな意味で体験していることが多いほうだと思う。そして、サバイバル過ぎたことで心は傷だらけだけでなく大きな穴も開いてしまっていた。それでも、なんとかこうして生き延びている。っていうか、上手くいかないことも多いし歯がゆいことも多いけれど、なんだか〝生きててよかった〟と思えるようになれていることにイチイチ感動している毎日は案外悪くない。
 そういえば…。数年前から自分自身を取り戻していく作業の中で知ったことだが、人という生き物に限らず、生物は環境に応じ適応していくように発達するらしい。ただ、私の場合には、養生生活を送り自身を取り戻す作業を行うことで、逆に元々自身の持っていた感覚が元に戻り、研ぎ澄まされてしまっていくような発達をしているように感じている。何故なら、同じ身体アプローチの指導を受けていて、その一部の人たちの中にその指導を受けたことで、『感覚過敏が治った』という人々が現れ始めた。
 でも、私の場合、その逆で、むしろ『感覚過敏が元に戻った!』という逆転現象が起きているのだが、私の場合には、私自身が元々持っていた過敏が元に戻ったということならば、これも、実は『治った』ことになるんじゃないの?と思うに至っているのだが、はてさて、医学的にはどうなるのだろうか? 私的には感覚過敏や発達障害が治ったとか治ってないとかそんなことは鼻くそくらいな大したことじゃないことに気がついてしまったので、どっちでもいい。それよりも、どんな自分も認めて受け入れられるようになれたことの方が〝尊い〟ってヤツなのだが…。
 大人になってちょっとは鈍感になった〝感覚過敏〟が逆に更に敏感になっている。しかも五感に限ったことじゃない敏感さも持ち合わせていたようなことを身をもって体験している。しかもどうやら私だけじゃなく、息子も同じ体質なようだ。しかも息子は私よりも更に過敏が酷い。
 実は私は、幼少期から敏感でもあり鈍感でもあったのだが、5年程前から身体のことを大切にするようになったことから、大人になるにつれ鈍感になっていた感覚過敏が逆に元にもどっただけにとどまらず〝感覚過敏〟が過ぎることが、自身の身を助けていることに気がつくことになった。
 私の身の上に起きたこういった〝変体〟が〝進化〟というものなか〝退化〟というものになるのかは、どの視点でうながえるかで全く違ってしまうよなとも思う。いろんな意味で〝熊本地震〟が、本当の意味で私自身を取り戻すための〝はじまりのゴング〟でもあったのかもしれない。
っていうか、しかも、なんで中年になった今、気がついちゃったんだー!私のバカバカバカー‼‼‼ 
 





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