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祈りと願いと無量大数と①

 

戦争と平和

 
 知的障害を伴う自閉スペクトラム症の息子が去年あたりから、やたら難しい言葉で私に投げかけてくるエコラリアが相対性理論に匹敵する…いやもしかしたら、それ以上かもしれないくらい壮大すぎて、頭を抱える日々を過ごしている。

 現在一般的なIQだと5歳になったかならないくらいじゃないかと思ったりするが、彼の中で何が渦巻いているのかは全くわからない。これは私の想像の範疇でしかないが、もしかしたら『死』について気がついたからかもしれない。

 息子の成長を感じ、なるべく季節の行事は自宅でも行うようにしており、特に七夕の時は、自宅で七夕飾りを作り短冊に願いごとを書き吊るしている。私の願いはありきたりな内容だが、息子の場合には『戦争が終わって欲しいという想い』が自身にあることや毎日のように“戦争の話”や来世の話をされるので彼の中で蠢く言の葉を短冊に書き記すことで、視える化させることにした。そうしたことが、息子自身にとって何かしらの効果があるかどうかはわからないが、自身の中から湧き上がってくる言語を自らで書き記すことが内省言語をカタチに残すことになり、想いを昇華させる方法でもあると思ってのことだった。
 それに、もし、その願いが叶うならば、彼自身を含め宇宙全体の平和にも繋がるポジティブな願いになるわけだし、一石二鳥じゃないかと単純に思ったからだった。そうした意味で、自宅以外の七夕飾りにも「世界が平和でありますように」と息子自身に書いてもらい短冊を吊るすことを我が家の毎年の恒例儀式にしている。

 ただ、こういったお利口さんな言葉を健常域の成人男性が書くのと重度域の知的障害を伴う成人男性が書くのとでは印象が随分変わるんじゃないかと思う。我が家は後者になるが、そういった意味では幼少期の子どもたちと同じように印象よく受け取られるから羨ましい。
 これが、私のようなタイプの中年のBBAでしかも精神障害がある場合には、胡散臭く受け取られてしまうのだから、他者評価なんていい加減だなぁと思ったりもする。

 そういうワケで息子の中でいつの間にか定着している一文が「戦争が終わりますように」と「世界が平和でありますように」になるのだが、これらに辿り着くまでには、様々なセンテンスのエコラリアの概念を、事細かく本人の持っているだろう知識の質に合わせ、伝える日々は悶絶するくらい相当苦労した。
 ネットで情報や動画などを検索し、視覚的な支援を用いながら息子に届くような言葉で伝えなければならない。それには、私なりに一度咀嚼しなければいけない物事があった。それらは「生」や「命」に関することに向き合うことをさいど迫られることになり、涙をこぼしながら伝えたこともあった。なんというか、無垢な神様との問答はある意味修行のような毎日。
 〝心が丸裸にされる〟そんな言葉がピッタリの日常生活は今日もまだ続いている。

②へ続く

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