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#006_終わりの始まり

私の左手の甲には、
新月のカタチをした傷跡がある。

 この傷跡が、神話や映画の主人公のような、実は月系の神様の〝証〟だというようなことだったらよかったのに…。そうしたら〝えええ???まぢで???私が???私でいいの???〟と思いながらも、心の中でガッツポーズをしながら広角があがるくらい心が躍ったかもしれない。 が、恥ずかしながらそっち系の話ではなく、実の息子に噛まれた傷跡なのが現実だ(苦笑) ただ、今思うと、息子がまだ小学生で身体も小さい時期だったからあの程度の傷跡で済んだのかもしれない。現状の息子だったらと考えると恐ろしい…。

▼3年前に行動障害が起きて庇いきれなかった時の写真。まだ行動障害がはじまった頃に数十か所噛まれた時は、両腕が真っ青になったくらいになり、これより酷かった。

20170817_傷


 それでも、行動障害が起こり夜な夜な戦うことにもなっていた時期もあったのだけれど、メンタル強化されたこともあり身体のことを簡単に教えてもらっていたことで、息子よりも身体が小さい私でもなんとか対処できるようになった。
 ただ、なぜ、息子が人を噛んだり抓るような行為〝行動障害〟を起こすようになってしまったのか、行動障害が起き始めた当初は全く原因がわからなかった。息子の場合には、どうやら障害があるということだけが原因でもなく様々なことが重なっていたことから、顕在化していたことを知ることになったのは、実はつい最近だといってもいい。 それでも、血のつながりのある実子に両腕を十数か所噛まれたり、抓られたことで両腕がまっ青になってしまうくらいのような出来事が起きなければ、私はおそらく、息子が〝知的障害を伴う自閉症スペクトラム〟であるということだけで終わらせてしまっていたかもしれない。

 そんな息子が今年(2020年)の3月に支援学校の高等部を卒業した。長かったようで短かく感じるのは、自身の至らなさが引き起こしたことが原因で、一度息子と離れ離れで暮らしていた時期を過ごしたからだ。 私が親だったばかりに私の負の人生に巻き込んでしまった一番の被害者の息子(苦笑)。本当にごめん(汗)

 人生初のドロップアウトを起こしてしまった時には、一番大切にして、向き合う必要があったのは自分と息子だったのにも関わらず、その当時は気づけなかった。 いや、一応、私なりに自分にも息子にも向き合っていたつもりだった。でも、私自身がそれまでに得ていた、子育てに関することも含めたすべての物事に対しての〝価値観〟がどこかで捻じれたりズレてしまっていたことで負の連鎖となってしまった。
 あの当時、自身のネガティブな部分をきちんと認め、受け止めることができていなかったことが、私自身の人生を狂わせていた。そのことに気づけたのは、結果的にその当時治療していたうつ病が悪化し、閉鎖病棟へ緊急入院することになり、一度ポッキリと人生が折れてしまったからだ。 
 当時の友人・知人に限らず、我が子までも巻き込んでしまっていることに気がついた時は、本当に自分がどうしようもない人間に思えた。 そんな不甲斐ない母親の私を、随分前から息子なりに守ってくれていた守護神みたいな存在だったことに気がついたのは、再度一つ屋根の下で暮らし始めたことで気がつくこととなった。だから正直いって息子に頭が上がらない。
 そして、不思議なことに、息子に時々起こる〝行動障害〟と私が立ち向かうことで、自身が思春期の頃から悩んでいたことも、何故か解決することとなり、息子に時々起こる〝行動障害〟はメンタルのケアや環境調整又は食事だけでは私は対処できたとしても、他の人は絶対対処しきれないと思ったこともあり、昨年の夏投薬治療を開始した。 ただ、投薬治療でかなり落ち着くことはできたのだが、投薬治療だけで解決できないことも〝ある〟こともわかった。
 時折、降って湧いたように〝自傷や他害〟といったカタチで〝行動障害〟が起こる息子と関わる中で、私は、自身が幼い頃から悩んでいたことや自問自答してきた案件や保留事項にしていた様々なことがたくさんあったのだが、それらが不思議と全部紐解けることにもなった。

人生3度目のドロップアウト

 息子のことが落ち着いたと思っていた矢先、今度は私自身の体調がすこぶる悪くなっていった。メンタルは強化されたことで、落ち込むことはあっても寝込むまでになってはいなかったのだが、身体症状がすこぶる悪くなりはじめた。 そして、元々梅雨と冬場はうつ病が発病しやすい体質だったこともあるのか、いろんな意味で限界を迎えたのか、ちょっと気になることが被害妄想に発展し、左目が霞みはじめ、身体が硬直しはじめたのを感じたので休憩させてもらうことにした。それでも、自分では身体が動かせない状態だったになっていたので、職場のスタッフの方に車いすで休憩室に運んでもらっている途中で〝痙攣〟が起きてしまった。というか、過去にさかのぼりどんなに職場で体調不良が起きたとしても〝痙攣〟が起きたことはなく、閉鎖病棟へ入院しいた時以来、初めて人前でその姿をみせてしまった。といっても、私の場合意識がなくなる全身痙攣ではなく、〝痙攣〟が起きている状況にも関わらず、意識はあり、むしろ話もできてしまう…。そんなおかしな状態を職場の人にみられてしまったのだった。 その日は、落ち着くまで会社で休憩をし遠方に住む親に来てもらうことでその場をしのいだ。 痙攣が落ち着いた後、職場の上司に「こういう時私たちはどういった対処をすればいいのか」訪ねられたので、今日と同じような対処をしてもらうなど説明をし、当時の主治医に電話をしてもらい指示を待った。 その日は土曜日だったこともあり、主治医はその日同曜日なので不在ということもあり、受け入れができないので、痙攣が続くようなら国立医療センターに外来受診をしてくれという指示を受けたと上司から一旦そうした説明を受けた。そして、両親が迎えにきたので私はそのまま自宅に戻った。
 ただ、上司の説明がなんとなくオカシイと思ったことや、仕事中に〝痙攣〟が起きてしまったのもあり、次回の受診日を変更し早いうちに主治医に診てもらおうと思い、変更できるかどうかの相談をしようと思い病院へ問い合わせてみると…。私が痙攣をおこした土曜日の当直医はなんと私の主治医だったようだ(笑) それにも関わらず、主治医は直接、職場の看護師だか上司と話をした記録が残っているということを当直の方に教えていただくこととなりその件が発覚したのだった。そして、その内容を聞いてみると、主治医の記録には、「痙攣が起きているようなら、検査が必要になるので精神科のある大きな病院を受診をしてください」と指導をされたようだった。笑うしかなかった。そして…それを知った私の頭の中では

ーー<心の聲ハジメ>

っていうか、誰が主治医と直接話したんだろう…。うちの職場、看護師さんもいるのに。なんでそんな対応なん? 私なら、主治医が当直だったなら、私は意識はあったのだから、直接主治医と私が電話で話をさせてもらえたらよかったのに…。 それに、主治医が話ができないということなら〝痙攣〟が起きたということですが、『本日は土曜日で外来受診での対応ができないので、精神科のある大きな病院へ受診してくださいなんて』言われたら、せっかく両親も来てくれたから念のために受診したのになぁ。 それに、本人が大丈夫といっても、意識はあるけど〝痙攣〟は起きていたので、一応、外来受診をうけに大きな病院へ受診してくださいと両親に伝えるけどなぁ…。
っていうか、意識あったんだから主治医がいたなら、電話変わってくれればいいのに…(苦笑) 私が先生に直接そんなこと言われたら、国立医療センターに受診したのに…。)

ーー<心の聲オワリ>

 私が上司から直接聞いた話とは、なんだかズレを感じ、母に、私のことを職場へ迎えに来た際に上司からのどんな説明を受けたのか尋ねてみると、当直の方から聞いた話とは、やっぱり話が違ったのだった。

それと、痙攣が当日に〝痙攣〟が落ち着いた頃、上司は私に

「また職場で〝痙攣〟が起きた時、
 私たちはどういった対処をすればいいのか」

といった質問をされたのだが、それ以前の話だと思った。
 まず、主治医から直接指示を受けていたのにも関わらず、私にそれを黙っていたこと。しかも、主治医の説明をきちんと説明できていないこと。 そして、主治医の指示を、私だけじゃなく第3者になる私の両親が迎えに来た時に、きちんと両親に説明もできていないこと。

 高校を卒業し、社会人になって受けた研修で教えてもらった、職場での常識『報連相』ってやつが全くできてないんじゃないの??? 嫌、1年働いてた中で、そういうのがで来てなさを感じてはいたけどさー。これってなんなん??? 私の中で、ものすごい気持ちの悪さというか、嫌悪感を感じた。そのことから、まず、主治医の指示を聞いて対処できない職場なら、働くことは無理じゃん。と思うにいたったこともあり、職場に電話をし仕事を辞めることを伝えた。
 その後、受診日を変更し脳波の検査をすることになった。そして、その検査で『てんかん』が発覚したことから入院にまではいたっていないが、3度目の自宅療養生活となり、一旦卒業していた抗精神薬、今度は抗てんかん薬になるが私自身も投薬治療がはじまったのだった。(数年は漢方薬で対処できていた。)
 実は〝てんかん〟が発覚し診断をされた時点で、主治医から『車の運転を控えてください』といわれる。これは、てんかんの診断を受けた人だけではないようだ。〝てんかん〟に限らず、薬の副作用によりそういった指示を受けるケースもあるようだ。(実際のところはどういう状況なのかはわからないけれど…) ただ、私の場合、その時点ですでに退職していたので仕事に影響にはなかったのだが、息子がまだ支援学校へ通学中だったので、通学の手段を考えないといけなくなってしまった。自宅近くにバス停はあるけれど、時刻表を調べてみたが時間があわない。とりあえず、卒業まで後2週間程度なので大幅な遅刻をするか、遅刻をしないように行きだけは、タクシーを利用しないといけない状況だった。 
 タクシーを片道だけ利用するにしてもそれなりの金額がかかってしまう…。とりあえず1日だけはやり過ごしたが、生保の身だし…たった2週間…。されど2週間。さてどうしようか…。そんなことを考えてあぐねていた時、運がいいのか悪いのかコロナ禍により日本全国が外出自粛要請となり、全国的に学校が一斉休校となった。そのことから、通学の心配をせずにすむこととなった。それにより、支援学校最後の卒業式も危ぶまれたが、何とか卒業生と保護者だけの卒業式を迎えることはできたので、卒業式が不発に終わることなく、学校生活を終えることができたのはホッとした。
 卒業後は、私たちなりにボチボチ日々を暮らしていけばいいと思っていたものの、車に乗れなくなってしまったことから、卒業後の通所先への通園のことも考えることになったが、送迎してもらえるかどうかを我が家の担当の方へをし、通所施設にかけあってくださり、なんとか送迎してもらえることとなった。そして、通所が始まる前に送迎だけの練習をし、4月から通所生活がはじまったのだった。

 とりあえず、問題が解決すると同時に新たな問題が発生してしまう。といったことが何度も起きていた数年を過ごしていたこともあり、ブレずにその時々で私なりに対処できた。ただ、そういった問題が起こるたびに私の勘がさらに鋭くなってしまっている感も否めない。 ただ、メンタルは大丈夫なのだが、何か起こるたびに疑心暗鬼になったり被害妄想は起こるそれを治めるために呪文のように家の中で独り言を声にだして言うことで、対峙すりょうになったのだが、ネトフリのドラマ『愛の不時着』のように、万が一誰かに盗聴されてたら身震いされているだろうなぁと思う(笑)(…っていうか私はタダの一般人。アリエナイ、ワラエナイ。)

このような状況になる心理状態も含め、身体的な問題が起きたことは、丸ごと全部主治医に伝えるようにしていたのだが、それでも、ハッキリとしたことは分かっておらず、職場で〝痙攣〟が起きたことから、私の身の上に起きていたポルターガイストのような身体症状が、なんの持病だったのかに一旦辿り着くことはできたのだが…。ただ、今だ、ハッキリ確定したとはいえない状況のようだ。その後、徐脈も発覚したのだが、検査の結果は今のところ大丈夫だということで一旦落ち着いた。
 私のカラダの中で様々な状況が起こっていると同時に、世界中で流行しはじめた新型肺炎が日本でも猛威を振るい始め外出自粛要請がでた。〝てんかん〟がある程度落ち着いつくまで自宅療養することにもしたし、暇な時間を有効利用するために、再度、改めてPCに向かい今春からこうして自分史を綴りはじめたのだ。

溢れるような源泉かけ流し〝感謝〟

 ああ、忘れていた。また、話が前後してしまうのだが、息子と一つ屋根の下で暮らした3年の月日の中で、自分なりに様々な行動はしたものの、これまた、様々な事情が重なりすぎて悲しくも〝生活保護世帯〟となってしまった。 しかも嬉しくもないオマケつきだ。少額だったが債務整理を行うことにもなってしまった。 
 昔の私なら、ゆゆしき事態な問題が発生。以前の私なら、こういった出来事だけでもメンタルが落ちるだけでなく身体が動かなくなってしまい寝込んでしまっていたのだが、様々な体験をしメンタルが強化されていたことで、一旦落ち込むことはあっても、寝込んでしまうまでにはいたらなくなっていた。
 生活保護を受給開始したのは一昨年の年末からになるが、人様が納めた税金のお陰で、私たち母子は国の社会保障制度をめい一杯利用させていただきながら生きながらえている。それは、息子に障害が発覚した時から意識はしていたが、短時間でも働くこともできなくなってしまい、それでも生活ができていることもあり〝感謝をしなさい〟と人に言われるまでもなく、そういった気持ちが源泉かけ流しのように自然に湧き上がってくる状況だ。正直言って、昔の私なら〝感謝〟どころか〝罪悪感〟の源泉かけ流し状況となり、自身を追い込み自死していたかもしれない。
 それでも、息子を置いて自死することもできないし、息子の一番の理解者は自分しかいないと思っていたからこそでもある。そして、少しでも元気になって少しでもまた働きたい。働くことが私にとっての喜びでもあるからだ。 それに、持病や障害が完全に〝治癒〟することはなくても、それらを抱えたまま、社会の中で私たちなりに、より良い暮らし方ができるようになれば良いと思い日々を過ごしている。
 これまでに息子と過ごした日々の経験は、私にとって神様からの贈り物だったのかも…なんていった思いにも駆られるようになったのは、今年になり、悲しくも世界中で猛威を振るっている新型肺炎のお陰でもあるのかもしれない。 そして、改めて自分史を綴り始めた最中に、更なる災害が私たちの住む熊本県内の広範囲で起きてしまった。

 熊本地震と同じように、一部地域の災害状況が酷いだけでなく、広範囲に渡る自然災害。しかも、今度は河川の氾濫等による水害だ。 熊本地震からようやく復興をし、地域それぞれにこれから…という時期に差し掛かった時、今度はコロナ禍により、自国だけにとどまらず世界中が外出自粛要請となった。そのコロナ禍で起きた外出要請が徐々に緩和され、日常が取り戻され始めた時期に今度は広範囲にわたり甚大な災害が起きた。熊本地震で被災してから『明日は我が身』という言葉が何度リフレインしたことだろう…。

 その大災害が起きた時、私たち母子は息子の歯科治療のために、ある病院へ入院することになっていた。 本当は卒業後、間もなく入院治療をすることになっていたのだが、コロナ禍により一旦延期となっていた。外出自粛が空けたことで、早めに入院治療の予約をいれたのだが、今度は災害で延期になるのだろうか…と案じたのだが、そんな中、幸いにも入院治療をすることができた。 障害があることで、息子一人で入院することは無理なので、付き添いで私も一緒に数日病院で過ごすことになった。
 実際に住んでいた地域では大きな被害はなかったのだが、障害を持つ息子と二人暮らしだったこともあったので不安な毎日を過ごすことなく、息子の歯科治療が延期になったことが〝不幸中の幸い〟にもなった。

 1度目のドロップアウト後は障害年金受給者になったことなどもあり、息子だけじゃなく、私自身も社会保障を使うことで生活を出来ていることが当たり前になったことから、何か大きな災害が起こるたびに、誰の役にもたてない無力な自分の立場が歯がゆくもあり悔しくも感じていた。
 何の役にも立てない自分が生きていることに〝疑問〟を感じていた時もあった。『誰の役にたてない無力な自分でも、この地で生きていてもいい』ということに気がつかせてもらえたことは、これまでに生きていた中で、何度か感じることはできていたが、東日本大震災後を期に、私の意識は少しずつ変わった。 こういった、個人だけではなく社会全体が揺るがされてしまうようなことが起きたことから、まずは〝自分や自分の半径1メートルを大切にすること〟そして、わりと、自分の身の周りに何もない自分でもできることはたくさんあることに気づかされた。ただ、それがきちんとできていたのかはわからない。
 その後、熊本地震を体験したことで、更にそれらを思い知ることになったが、再度、コロナ禍からの大災害が起きてしまったことで、自分が本当に大切にしたかったことが何だったのかに改めて気づかされ、日々の些細なことが全部宝物のように思えるような毎日を送っている。

 自身の不甲斐なさが呼び起こした精神科閉鎖病棟へ緊急入院したことから、母子分離となった息子とまた改めて共に暮らせる日はもう一生来ないだろうと思っていた時期があった。少し遠回りしたが、息子と改めて暮らせる日がきた。 その当時の想定していたことから大きく外れ、今、私たち親子は〝想定外の未来〟を共に歩んでいる。そして、それらは現在も尚、日々更新され続けている。
 他人様からすれば、私たち親子は不幸な身の上にしか映らないかもしれない。でも、私の心は〝ハレルヤ〟なキモチだ。そんな、私と息子の波乱万丈な〝暮らしの忘備録〟を中年のうちに残しておこうと思う。私自身の記憶がしっかり残っている今のうちに記録しておかなくちゃね…。

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