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意識と時間②

お釈迦さまも岡潔先生も、感情と意識のベールのこちら側にある自我をなくしてしまえば、悩みも苦しみもなくなるとおっしゃっている。えぇ、言葉ではわかるけど、そんなの幸せでも何でもないんじゃないの?と聞こえそう。しかし、何かに没頭していて、あるいは真剣に作業していたりして「無心」になっている時は、良い悪い好き嫌いの感情が表出しない。だから、わたしたちが集中していられるのはせいぜい45~90分程度。一息ついた途端に自我がチェックをはじめる。
岡先生の考察では、意識のベールができはじめた2歳4ヶ月の子どもには、現在はあるが、まだ、過去の認識はない。夢中になってやっていたかと思うと、気が変わってプイッとあっちに行ってちがうことをはじめる。あるいは、わたしたちでも、寝ていて見る夢には何の脈絡もないし、続けて見る夢は4本5本立てだったりする。それぞれは、まるで1枚1枚のカードのように独立していて、目が覚めると中身はよく思い出せないが、1つのストーリィでないことはわかっている。そんな感じで、起きていて場面ごとに独立した別々のものをつなげて、過去→現在と線形に感じるのも、わたしたちの意識がそうしているだけのことで、この時期の子どもにはまだそれを必要としないし、システムも整っていない。その後、成長するうちに、時間を「・」点=計量的、線形の一部と見るのは、素粒子の光の波を一瞬(にも満たない刹那で)観測すれば「・」粒子に見えるのと同じ理屈で、見よう!としなければ見えない。苦を苦と見なければ苦はない。その苦をどうにかしようともがかなければ悩まない、ということ。

お釈迦さまってリアルに如実にとらえておられたんだなぁ、と脱帽する。しかし、その教え仏教では、自我を滅して如来の光明と梵我一如、不一不二になればいい、と説き、それには「智」が大切というもそこで話はおしまいになっていて、その先にある「真情」の次元(場)については語られていない。
そう、その(阿頼耶識や集合的無意識と呼ばれる)を越えた先について、言葉にお残しになったのは、おそらく世界中で岡先生たったひとりなのだから畏れいる。しかも、先生は、日本人なら無意識のうちにでも薄っすらとはそれをわかっている(理解するのとは違う)とおっしゃっている!

くらげは🪼水の流れのままに漂っていて、いかにもボンクラ風情を装いながら、実はそれなりに賢いらしい。頭で考えなくても周りの状況を察知して、自動的に危険回避の行動をとる。わたしたちにも同じしくみは備わっていて、誰にも教わらなくてもそのうち時節が到来すれば、寝返りを打つ、這う、立つ、歩くができるようになる。いちいち親が教えたわけではない。じゃ、どうして自動制御されているのか…前回書いた春が来て花が咲くしくみがソレ。わたしたちのからだを制御してくれている自律神経と潜在意識にみられるはたらきを土台として、そこから現れてきたのがベールのこちら側の自我、つまりは幻象のようなもの。

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