やまかわそら

著述家、番組パーソナリティ、おうち薬膳研究家として、俳句からショートドラマ、小説まで執…

やまかわそら

著述家、番組パーソナリティ、おうち薬膳研究家として、俳句からショートドラマ、小説まで執筆...noteでは、偉大なる数学者・教育者、1901年生まれ、故岡潔先生の講義録読解説、先生の思想哲学にインスパイアされたオリジナルを掲載

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「あけぼの」のそらへ

noteで岡潔先生講義録からインスパイアされた記事を掲載しはじめて一年が過ぎた。担当する番組でも度々とりあげているので、また、しゃべってるよ!と思われるのかも知れないが、いい続ける。何故か? このままいくとマズ過ぎると思うから。世の中が余りにも末法末世化していて、ついつい文句をいいがちだが、かといって自分ひとりが何かしても無駄だ、ラチがあかないとも思っていて善や光はいっこうに形にならない。 世界を変えるのは日本人といわれたりもするが、その日本人のオリジナルの精神性を本人たちが

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    • そろそろもとどおり

      かつて一流サッカー選手だった著名な方が、農場で鶏を飼い野菜を育てて悠々と暮らしていてステキだと話題になっているらしい。きっと、わたしたち凡人が想像できるすべてを所有して、行き着いた先が自給自足できるシンプルな生活だったのだろう。ケガをした、からだが不調で寝込んだ、といった立場になってはじめて、ふつうに歩く、たまに無茶食いできていたのはありがたいことだったと気づく。最近、縄文時代の暮らしがクローズアップされているが、そろそろ、無駄に便利、たくさん所有したものがエライという〝ゆき

      • 原因と結果を超える②

        仏教の唯識では、意識を階層的に分析していて、阿頼耶識の上に九識があって、そのはたらきである「知」がいちばん重要ってことになっている。五感というのは、七織以下のからだを伴って知覚されるエネルギーだから、その上に見えない周波数の階層があって、上にいくほど微細になり、感知器の脳(脳波)が大人しくθシータくらいに下がらないと同調できないから座禅をしてみたりするわけだ。そうしたかったらしてもいいが、わざわざご苦労さん、と思う。 前回、2歳1ヶ月未満の幼児には自我がないといった。その後、

        • 原因と結果を超える

          古くはお釈迦さまの時代から、因果応報と説かれていて、それはまるで不変の法則のように語られ受け継がれてきた。ここ数十年、その変化系として引き寄せなんて浅はかなものまでもてはやされたが、そろそろ、それを超えたらどうかナ。 この100年、量子の挙動が明らかになってきて、宇宙のすべては、見えるものも見えないものも、現象を形造るものは元はすべて素粒子の・であって、アナログ的に線形につながった時間なんてものもわたしたちの創造だったことがバレてしまっている。もっとも24時の概念は、イエス様

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        「あけぼの」のそらへ

          ふつーというまちがい

          あっ、ちょっと、と寄り道的に参拝した神社で、ふと気になってお日様を見上げた。天体イベントの日でも珍しい光景でもないふつーの場面…この当たり前が連続していることが、実はありがたいことだと気づくのは、アクシデントに見舞われたり、タイミングを逸してあー、(T . T)と立ち尽くしたりした時かも知れないが、自分ががんばってるとか流石とか、そんなのは勘違いで、感謝もせずに多くを与えられて生きていたことに愕然とする。いや、するひとは少数かも知れないが、まあいい。ふつーを脳から見てみると、

          ふつーというまちがい

          自分だけ助かろうなんて

          前回に続き、屋久島のスナップ…部屋に閉じこもっていると、ついついYouTubeを見てしまい。これじゃぁ、見なくなったTVや新聞がこっちに代っただけじゃじゃないの?と笑ってしまった。だいぶ前、まじめな投稿はスルーされ、なんだか意味のないものばかりにいいねがつくのを見て、アホらしくてやってらんない、いいねを返す時間が無駄だし、と痛感してfacebookを卒業したのを思い出した。もとより、評価はひとさまがするもので、いいねの数が社会の層を示しているというのはあるだろうが、こちらは露

          自分だけ助かろうなんて

          奇跡的な、という

          1年半ほどご無沙汰の屋久島で、奇跡が起きたという。正確には、屋久島のおかげでわたしちたが助かったのかもという話題。フクシマの時もそうだったが、たまたま何かの拍子に、ということはつまり奇跡の、という言葉にもなろう。因果の領域で考えれば、この世には偶然はないということになるから、ヤバい方向に向かっていたのに、因を凌駕するチカラがはたらいたなら、それをチャラパーにしたのは誰かってことになる。自分の日頃の思考では答えは出てこないし、想像もつかないからふしぎで仕方がない。この時、つい、

          奇跡的な、という

          待てないわたしたち

          きのう、ある説明をするのに、そうそう、去年書いたっけね、と「50年後の講義・岡潔先生講義録から」を半年以上ぶりくらいに読んだら、思ったよりマトモなことを書いていて、へーぇ、と感心したりして…存在を忘れている、つまり、頭の中にない(記憶にないわけではないが)ことを思い出させる縁起というのが、突然、向こうからやってくる。わたしは、引き寄せではなくて、全自動洗濯機方式と呼んでいて、宇宙の完全調和からもたらされる指令のようなものと理解しているから、無駄な制御をしないでいると、きょう、

          待てないわたしたち

          しあわせの砂時計⏳

          寺院の庭には、弟子が砂に描いた波紋があって、きっと、息をとめて無心にといいきかせながら箒を引いたんだろうなぁ、と。ひとのしたことをそうやって勝手に想像して、自分にはできないからすごいな、と感心する。側を通るインバウンドな人々が、おとなしく、履き物をビニール袋に入れて手に持っている様を見て、こういう日本的な体験に伴う感慨をアッチに持って帰ってもらいたいものよ、と。そういいつつ、寺を後にして、おいしいものにでもありつくと、すっかり忘れてしまうが、ときおり、カレンダーや絵はがきで同

          しあわせの砂時計⏳

          好きにするorわがまま

          嘘つき台風になぞらえて、国宝風神雷神図屏風(レプリカ)…いわゆる模写の精度が上がって、あるいはAIなど昔はなかった技術がどんどん出てきて、身近になる、便利、陳腐化が同居したような何でもアリな世の中が展開されている。しかし、ソレをどうとらえるかは自分の勝手で、ひとそれぞれな全く不同一な世界観の中に生きている。パラレルワールドなんていうけど、そもそも、かっことした物理的な現実世界なんて存在していないのだから、いちいち、別々の世界など存在しない。量子、例えば電子はその存在位置を確立

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          点と線のちがい

          量子は物質の最小単位で、質量のないヒモみたいなエネルギー、といったりするが、頭では理解できなくて、何となくそんなものかなぁ、とイメージするのが精一杯。点は、その一瞬にも満たない刹那を凝視したものだから、観察したひとによる、というのもわかる気はする。線は、今、あっちにまたはこっちに、まさに動こうとしているエネルギーの状態みたいなもので、その状態は、瞬間→瞬間によってちがうから・・・を線ーにしちゃうのが意識、意識の経過をつなげたのが線形の時間という感じ。そう、コレはわたしの主観で

          点と線のちがい

          お好きな方をどうぞ

          遠くでツクツクホウシが鳴いていて、夜には、ジーッと虫の音が聴こえているじゃないかと気がついた。夏らしいことをしないまんまだったけど、もう秋なんだね。テレビも新聞もやめてしまって久しいので、ニュースはもっぱらネットでチラ見するが、地震の警報音にビビッてから、震源地と震度がニュースに出たのは7分後。その後の報道があんまり手際が良すぎて、予定調和なんだろと勘ぐったりする。正誤をジャッジしたところで天のみぞ知るだと思うので、自分の生き死にも今では天にお任せしている。未曾有の災害が起き

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          自分の常識非常識

          きのう、standFMで番組を1本配信したら、さっそく、いつも聴いてくださっているリスナーさんから「ケケケの毛虫は、わたしもはじめて聴きましたよ!」とメッセージが…実は、ソレは収録の際にわたしの子どもの頃の局地的な現象だったのかも、とすでに判明していて、えぇー、とやりとりが繰り広げられていたのだが、やっぱりか、と絶句した。どういう文脈かというと、主語(自我)から選択するものはあくまで過去の経験や希望欲望にもとづいていて、全(宇宙)方向的に最適なことは少ないから、天の采配に従う

          自分の常識非常識

          短い夏に長い夏

          きょうもリハビリ的に…今年は蝉がやかましく鳴いていない気がする、と考えた端から、いや、あんたが外に出てないだけやろ?とノリツッコミをしながら暮らしている。自分の認識は正しくない場面が「多」という原則が身に染みているので、ほんとや!といつも思う。この歳になって、自分の姿をだいぶ冷静にチェックできるようになったのは、ひとえにこれまでのまちがいやうっかりを数えれば「枚挙にいとまがない」事実を知るからだ。昔も今と変わらず自信満々だったわけでもないし、己を直視できるほどの達観もしていな

          短い夏に長い夏

          葦にも劣るひとたち

          体調不良でダウンしているうちに、自然界は秋に移行したらしい。芸能人が何人か活動自粛に追い込まれたりして、ほんとに一瞬先のことは何もわからないねと実感する。さらにはあの謎の地震…「3」地域に居住しているがピクとも揺れていないから数が盛られているだろう。 さて、かれこれ1週間も棒に振って思うのは、自分がいてもいなくても季節も世の中もかまわず進んでいくということ。もともと世間にほとんど存在意義を発揮していないので、いなくなってもなんら困らないと想像できるが、しっかり休んでも差し支え

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          もうすぐ秋だなんて

          富士山は、今は雪はないけど、もう数日で〝立秋〟だなんて… その、富士山。こうして、飛行機からはたまに見るのだけど、新幹線で横を通る時、ピーカン天気でもそこだけ何故か雲☁️とか、三島に滞在して、裾野市方面にわざわざ車で走っても見えないとかさんざ嫌われているわたし(T . T)。それで、先々月、倉敷出張の折に、たまたま、木花咲耶姫神社と、そのものズバリの神社を(地図で)発見したので、片道45分バスにゆられて参拝にいってみた。久しぶりに、スピらのいない、ほんとうに清々しい空間(拝殿

          もうすぐ秋だなんて