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お好きな方をどうぞ

遠くでツクツクホウシが鳴いていて、夜には、ジーッと虫の音が聴こえているじゃないかと気がついた。夏らしいことをしないまんまだったけど、もう秋なんだね。テレビも新聞もやめてしまって久しいので、ニュースはもっぱらネットでチラ見するが、地震の警報音にビビッてから、震源地と震度がニュースに出たのは7分後。その後の報道があんまり手際が良すぎて、予定調和なんだろと勘ぐったりする。正誤をジャッジしたところで天のみぞ知るだと思うので、自分の生き死にも今では天にお任せしている。未曾有の災害が起きれば生きていても地獄かも知れないが、残ったなら、まだ、何か役に立ってから、ということなのだろう。ヒトは寿命でしか死なない。何人かの肉親を目の前で見送って、再確認したわたしの中の真実。怯えて暮らしたって仕方がないんだし、きょうできることをしよう、と、そんな実感をもって生きるようになったから、危機感もある意味では貴重かも知れない。

予定調和の反対は何かと考えてみて〝完全調和〟かなと思う。いいも悪いもすべての条件も含めた完全だから、宇宙の隅々で今何が起きたのかを知る由のないちっぽけなわたしには理解も認識も感知すらできない。だから、心配して生きても、全託して生きても結果は変わらない。起きることは起こるべくして起きる。誰にもわからない。理屈を超えた世界が完全調和なのだから文句をいってもはじまらない。しかし、そこには、どっちか好きな方を選ぶ猶予はある。不幸に怯えて身構えても平常心を保とうとしても自由。仏教でいう自由は、自らに由(よ)るだから、自分で決めていいのならいくらかでも楽しい方がいい。自分の楽しいが、ひとの楽(らく)につながるならもっといい。お互いにそう思えば世の中も変わるだろう。しかし、そんなに簡単にひっくり返らないだろうと頭で考えてしまう。これまで散々、多数決という名の嘘に翻弄されて生きてきたから。そして、頭で意識したことは打ち消さない限りカタチを帯びはじめるから、ほら見たことかとなる確率が上がる。だから、そんな思考はやめてしまって、周りの迷惑にならない程度に自由に楽に生きていようというのがわたしの最近のスタイルになっている。世の中には、えぇー、そんなことが起きるのォ、と信じられない事象がある。九死に一生とか奇跡的な確率でというような。つまり、それが完全調和であって、小賢しい、時として悪意に満ちたと感じるようなことをあっけなく凌駕し反転させるようなことが起きる。それが、オールマイティ(万能)ってことだから、理屈を超越している。
だからって、前向きに考えるのが無駄とか、その日暮らしとか投げやりに生きるというのではない。そんなことをしたら不幸のどん底から這い上がるなんてできなくなる。わざわざ、不幸になってどうする(笑)

そもそも、時間なんてない宇宙で、予定調和的な線形思考で、原因と結果なんていっている限り、自分の記憶や知識を超えたオールマイティに触れることなどない。-線はやめて・点で、きょうを無駄にしないで生きたとしたら可能性は360°になる。はじめも終わりもない。一瞬にして変わる。

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