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ちょうどのタイミング

(新潟)白山神社の参道を進んでいると、何とも涼やかな音色が聴こえてきた。ほどなく、それが、手水舎に吊るされたたくさんの風鈴🎐だと気がついて足早に近づいた。感染予防で柄杓を使わないようになったのがそのままで、水をすくわない代わりに花を浮かべた神社を見かけるようになったが、そのうち、元に戻るのかも知れないが、コレはこれで華やかでいい気がする。まだ、つぼみのままの桜もこの風鈴の音を何処かで聴いているのだろう。ついつい、風鈴は夏の風物詩と思い込んでいるから、遠くから、形を見ることなく、しかも複数のしゃらしゃら、いや、キラキラにも聴こえる音色を耳が(脳が)受けとると、何だか天界の調べのような雰囲気にハッとする。音は波動(周波数)そのものだから、いちいち説明を加えなくてもダイレクトに響いてくる。
さぁ、それで、本殿に続いていくつかのおやしろに参拝すると、今度は「12年に一度の龍年参り」と書いてある、えっ、龍年?ちょうど良かった(^o^)はじめてきてもうこないかも知れないからラッキー。こちらにはまるで蛇で龍のような樹齢数百年くらいの松の木がある、12年に1回なら巡り合うタイミングは閏年やオリンピックの3倍はかかる。
さて、いつもの調子で、タイミングはまた発展系になる。続けて日本海が見える方向へ歩いて護国神社へ参拝すると、なんと、朝勤めの奉納太鼓が響いてきた。ちょこっと知識があったので、それが、五穀豊穣の太鼓のリズムであるのはすぐにわかった、ありがたや…こんな時、当然ながら、わずかに数分の違いでそれに巡り会えないこともあるはず。また、別の日、わたしは、大阪駅でバッタリ関東在住の知人にでくわしたことがある。お互い、その日、関西圏にいるのは知っていたが、その日、その時間に、向こうはホームの階段を降りてきて、こちらは、同じ階段を上ろうとして…これなどは、15秒かそこらズレているかどちらかがよそ見をしていたら気がつかなかっただろう。しかも、自慢じゃないが、そんなの一度や2度じゃないのだ。でもそれでも、その時は毎回度肝を抜かれて仰天する。
こういうの、天の采配なんていうと大袈裟と笑うかも知れないが、わたしはそう確信している。何故なら、そんな時(例えば旅先で)、あーしようこうしようなんてあまり考えないし、まぁ、神社に行くなら早朝がいいかな程度の計画しか立てていない。考えてないのにいい目に遭う、タイミング良く行き合うとか、そういう目に見えない采配のようなものは確かにある。意識も量子的なエネルギーなので、あると思えば形に現れる。偶然と思い過ごせば偶然にしか思えないかも知れないが、何かのせい誰かのせいとありがたがって生きたっていい。幸せの種は、いつも自分が蒔いていて、見えないタイミングに行き合って芽が出たり花が開いたりする。その方がいいに決まっている、とわたしは思ってこれからも生きてゆく。

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