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日本人のこころ

松江に出張があって、40年ぶりに訪れた。前回は、高校の夏休みだったから記憶は定かでない、もちろんお酒も無縁の時代だから、今回、宍道湖七珍うなぎの昆布〆と皮の唐揚げをはじめていただいた。うなぎは好物だが焼いたり蒸したりしたものしか馴染みがないから、わー、生で食べられるなんてと感動した(笑)
打ち合わせを終え、帰り道に安来で途中下車して足立美術館へ向かった。久しぶりに横山大観を堪能する。出張はこうでなくっちゃ!
そうして、岡山で乗り継ぎ新幹線を降りて、そのまま、担当するラジオ番組に向かった。スタッフへのお土産は奥出雲の蕎麦、わたしは、年越し蕎麦はいつも奥出雲の蕎麦に決めていて、今回は、松本清張先生の小説の舞台にもなった亀嵩の蕎麦を求めた。

前回の放送に続いて、番組では、ヴィクトール フランクルの「夜と霧」とそれに関連して、さらにこころの奥の深層心理、岡潔先生の説くところの第二のこころ🟰情についてリスナーと共有した。40年前もそして今回も松江で訪れた小泉八雲旧宅と記念館にちなんで、西洋から帰化したとされる彼の作品に如実に写し出される日本的なこころ、梅の木、桜の木には魂があり、西洋の自然はひとの用に立つもの、という自然観とはちがう、生きとし生けるものはみな一体というとらえ方が、より宇宙の真理に近いという作品からの引用をお伝えした。西洋人の筆による作品ながら、まるでカメラで一枚の風景を切り取ったようなみごとな描写には恐れ入る。今の時代のわたしたちが、忘れ去ってしまったかも知れない本質のようなもの…それはまた、横山大観がその93年の生涯を通じて描き続けた日本人のこころそのものにも通じる。富士山をモチーフにした作品は1,000枚を超え、見るもののこころに迫ってくる。

戦後、日本人はあいまい、yesかnoかハッキリしろ、といわれてきた。しかし、損得でクッキリ割り切れるのは他を慮らないからこそできる芸当で、世の中は二律背反に満ちており、時と場合によって求められる対応(隗)は変わるのだから、即答できない、曖昧に薄らと笑みを浮かべて思案しているのが不気味に見えたにちがいない。意志や欲望だけで動くことをはしたないと感じる日本人と己を最優先することこそが善とする西洋人が同じ土俵で勝負できるはずがない。最初から平行線にしかならないのだ。

わたしが、浅学非才を省みず、今こそ、日本人のアイデンティティを復古させるべし、と岡潔先生の講義録を引用して訴え続けるのは、意図的に植え付けられた劣等感を払拭して、本来の幸せを追求するための鍵🔑を開けて欲しいと願うからに他ならない。ひとが嬉しいと我も嬉しい…踏みにじられ打ち捨てられた植物を見て、悲痛な、胸を締め付けられるような想いにかられる、わたしたち日本人のこころに立ち返ってこれからの未来の在り方を考えることが必要と思えてならない。番組のコンパクト編集は、こちらをhttps://stand.fm/episodes/646ee9474a8243b0e07ce791


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