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主語のない一体性

心理学で話題にされる顕在意識、潜在意識の先にもっと深い意識の階層が
ある、その頂点が「第九織」と仏教では説かれています。
目に見えない意識の階(きざはし)は、縦に伸びるハシゴではなく、目には
見えない、意識も出来ないが確かにある、入れ子の🪆マトリョーシカの
ような感じなのかも知れませんね。

岡潔先生が到達した階は9を通り越して「14」層に及びます。
深く深く、追求した先は、人知でははかり知れない静寂ただあるのみ、と。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが「アートマンではない」と喝破した
宇宙の根源意識そのもののことです。
ですが、話が深淵すぎるので、しばらくは傍に置いて、ずーっと手前の(マ
トリョーシカでいうと芯に近い)ところから感じてみましょう…

何故、考えてではなくて「感じて」なのか?
言葉でカクカクしかじか、と言い表せるのは、大脳前頭葉の自我的感覚
(理や知に代表される)や側頭葉の言語、空間認識の処理システムをもとに
認識→考察しているからです。
いろいろ、説明されてわかるような気がするところ…つまり、ごく、表層
というわけです。
そして、潜在意識の少し深いところに在る自他の区別のない集合的無意識
の領域になって発動してくるのが「情」なのですね。

そういうわけですから、自他の区別が生じる、主語を置いて考えたり話し
たりしているのは、ごく浅い感情に左右された表層の自意識(小自我)なのだ、
ということになってしまうようです。
わたしは、○○である、と宣言するわたしは、浅はかな者で、真情=本体、
あるいは、情の湧き起こってくる源泉であるはずがない、と。

 この道や ゆくひとなしに 秋の暮れ   松尾芭蕉

この句には、自分はおろか、ひと一人いない、夕暮れの道しか語られてい
ませんし、淋しいとも暗いとも何も告げられませんが、何となく伝わって
来る共通の、言葉にできない感覚がありますね…
この主語のない、自他の区別のない共通性=一体性が情の発露である、と
まぁ、ちょっと説明してみるとそんな感じなのかなと思いますが、言葉に
した端から、いい得ているのか?とふつふつと疑問が湧いて来ます。
だから、感じるしかないのです…

そして、むろん、その感じ方は、自身の感覚を通さなければ認識できない
ので千駄万別であって、すべてのひとが同じものを受けとるのは不可能、
ほんとうの意味で同一のものは、その認識を超えた、全てが帰結する静寂、
もとひとつの源泉に帰るしかないということでもあります。
しかし、ここで、諦めてしまう前に、もうひとつ喩えを引くとしますと、
「大海の一滴」と称される水のはたらきにヒントがあるかも知れません。

源泉の一滴は、小さく、しかし、その成分は源泉そのものが分かれたもの
で、規模のちがいはあっても同じもの、でもあるわけですね。
規模は、ここでは、深さ(レベル)のこと、優劣や正誤の区別はありませんが、
深さはちがうことを指しているのではないでしょうか?


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