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シンクロニシティもどき③

②で、そもそも時間なんて概念はこの200年足らずのもので、便宜的にあるいは誰かの意図で共通認識が形成されたんだろう的な説明をした。わたしたちの意識は、エネルギー保存の法則のごとくにずーっと存在しているから、これまでの超長期の経験の1つ1つや願ったこと恐怖したこと、ありとあらゆることはデジタルにカードのように存在し続けていて、ある時(Now)同じ周波数が共振するとポンとエネルギーの波が増幅し現象化(顕在化)して、あ、そこにいたんだ、おひさしぶりみたいに感じる。そもそもすべては同時に存在しているのに、造られた時間の概念に縛られているから、過去→現在→未来と直線的に時間が経過していて、あることがソレの原因になっていて、コレが結果としてもたらされたと勝手に解釈する。つまり、原因と結果は「時」という概念がなければ意味をなさない。だから、アレとソレには因果関係はないんじゃね?と疑わしいことは、非因果的連関の法則といってふしぎな現象と片付けそうになる。イヤ、そうじゃない、と物理的な理論と統一したいと果敢にチャレンジしたのが、パウリ先生(尊敬)✨

原因と結果の法則でおなじみのジェームズ アレンも最晩年の著述では、良いことを考えて良い結果を引き寄せることなど、大いなる全体性の中ではたいしたことではなく、意識の階を昇るためにはと(一見すると宗教的なこと)を書いていて、願望が実現することに躍起になっている、または、それこそが幸せと勘違いしているひとがバイブルとしているあの本は、彼の著述の出発点なだけであって本論じゃないのに、タイトルと見出しの巧妙さでベストセラーにされてしまうのだから、本人にとってはかなりやるせないだろうと同情しちゃう。多くの場合、事実や本論は面白みがなく、また、あまりにシンプルすぎて有り難いものに見えないことの方が多い。見る者(観察者)の意識レベルに左右されているから、枝葉末節ばかりがもてはやされる。

あ、それで、時の概念を傍に置いて、原因と結果の法則をなくしても、めでたしとはならい。仏教で表現するところの悪因悪果善因善果の種がなくなっていないから。わたしたちは自分の望みが叶うことがいいことと思い込んでいるが、全方向的(全宇宙、人類)な調和に逆らうような我が過ぎる行為には不調和が生まれるし、あなたの考える良いことがすべての存在にとってもベストでなければ、悪気はなくてもそれは善因とはいえない。もうちょっと宗教的にいうと、地獄も修羅場も天国もすべてわたしたちが生きてきる今に同時に存在していて、自分の思いひとつで真っ逆さまに落ちることも(もちろん敗者復活も)ある。それが、時間の概念をとっぱらった世界。実は、わたしたちは生まれる前からずーっと永遠にこの世界に生きている。何が良くて何が良くないのか、宇宙の根源の意図を知らなければ正しい答えは出てこない。もちろん、知ろうとして求めなければ与えられない。この世に制限などない、ワクワクが大切なんて半人前なことをいってたら、また、1からやり直しになるよ⚠️たまには脅しておこう!
*写真は、がく紫陽花=日本古来のオリジナル

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