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似て非なるもの

このところ、頼まれて連日フライヤーのテストをしている。きのうは、コレ、パック詰めの時に亡くなっちゃったやつ?とおぼしき半額の車海老を迷わずゲット、続いて20%offシールの手羽中とお買い得ぴちぴち鯵をカゴに入れた。鯵の南蛮漬けは油の劣化を誘うNo.1だから…それで、昼間から迷わず、急激に冷やした一番搾りを開けて、仕方ない揚げものでもご機嫌にいただく(^O^)そんな毎日。GWは終わったが、実際、毎日が仕事で毎日が日曜日。どうしたらそんな暮らしぶりが許されるのかと聞かれても、まぁ、誰にでもマネできるわけじゃないしね、とは思う。ものごとには、安定vs不安定、見通せるvs不透明があると思うのがふつうの感覚だろうから、なかなかそんな選択にはならないだろうね。
先日、番組で、いきあたりばったり、その日暮らしとケセラセラ、自然に任せるの意味するところは、似ているが非だと話して、はたしてリスナーさんにわかるように説明できたのかは疑問だったが、この似て非なるものを時々考えてみるのがいいと思う。
安定な方がいい、不安がないのがいちばんいい、と思うのが当たり前な気がするが、冷静に考えてみると、不安定でも怖がらずになるべく平常心を保ちながら、左右にバランスしている一瞬を安定と呼んでいるだけのことで、実際には、ずーっと安定なんて状態はない、ないのにあると思い込もうとしてしているだけ、とわかる。あるいは、自然に任せて、フローに流されて、という場合の一見こころもとないような、無抵抗の正しい他力本願が安定ということに気づくひとは少ない。これは、大脳を経由する顕在意識より潜在意識のコントロールの方が圧倒的に強力で、意識してそれに争おうとすればもっと飲み込まれてしまうだけ、という現実を連れてくる。ふつうは、日曜日でもないとそんなこと考えてみないだろうね。いや、日曜でも考えないかも知れないけど。
九死に一生もあれば、人間ドックに行って亡くなるひともいたりする。最近では、25年7月が危ない、津波は60mに達するという噂が絶えない。ウチは海抜4mだから二階屋の屋根に出たところで8mにしかならない。必死に山に向かったとしてもおそらくは無理だろうと観念する。ま、ひとさまにご迷惑をおかけするのはまずいので、良い解決策があればいいが、最悪、人生のピリオドが打たれても、永久に生き続ける意識の「◯◯時代」と呼ばれる人生が終わるだけじゃないか、と思う。あるいは、たまたま、何処かに出張していて難を逃れたりするのかも知れないが、帰るところ寄る辺なき身になれば、それはそれでかなり辛いではないか。寿命はこちらからは選べないから潔く、なるままに任せて生いようと思う次第。
コラボで番組を放送している歌手生活50周年のミネハハさん。新潟中越地震の時も311東日本震災の日も九州でわたしと一緒にいた。どんな巡り合わせかなと可笑しいが、彼女には難を逃れる意識しない自動制御装置が備わっているのだろう。

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