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考えない、純粋直感というもの

屋久島にはコンビニはないし、わたしの滞在中のホームベース尾之間で、鹿児島満喫券が使えるのはAコープだけで、仕方なくどうしてこんなところでコレを買い、しかもわざわざ帰りの荷物に?といいたくなる日常使いの粉や茶などを求め、はじめて見たかるかん粉、さといも粉を選んでみた。片栗粉はほんとうは片栗の根っこのはずだが、今はすっかりじゃがいも澱粉にとって変わられてしまった世の中であるが、ここではふつーにさつま芋もありなのだ。
さて、そろそろ冬至だから、あんに保存していた柑橘の手づくりジャム、皮に柚子の果皮をすりおろしを入れてなんちゃってかるかんを蒸してみた。日本酒でいただく…

材料を計りもせず、味見もしないでつくれるなんちゃって、その上、よくレシピが書けますね、といわれるが、いつも同じ台所で同じ器具を使うのだから、このスプーン一杯は大さじ1と同じ15gくらい、プロならわかるだろう。もちろん、ショートケーキのふわふわのスポンジはそうはいかないが、自分や良く知る人の胃袋に収まるおやつならかまわない(ことにしている)…母は、料理のうまいひとで、今考えると経験値から来る応用力の高さを得たひとだったから、手伝いはしないながらに背中越しに記憶している感覚もあるのだろうか。

料理には黄金比があって、卵1つ分に合わせる砂糖や粉、バターの量はふしぎとコレがベスト、という具合…ほんとうに、ものには理屈があるのだとうなづく。だから、街の小洒落たビストロで、シェフの気まぐれサラダなどと記されたメニューを見て、お客に気まぐれでモノを出すな、とイラつき、きまって、そんな店のスタッフは、このメニューの素材の産地は?安いから国産じゃないよね?と尋ねても、まして、ワインについてなど何も答えられず、奥に行ったまま戻ってこない。もう、2度と行かないからいいけど、自分でつくっていただいた方がいくらも贅沢だったとガッカリする。コ○ナ禍になって3年、この傾向は加速している。残念だがもう、もとには戻らないだろう。

純粋直感などというとドキッとするが、わざわざ、純粋とつけたのは、何も考えなくても一瞬にして、わかるという意味だ。世の中のひとは、直感が大事というが、それらの多くは、大脳前頭葉から来る好き嫌いに根ざした感覚がほとんどで、厳密にいえば直感でも何でもない。欲望にかなうものを直感で、と浅はかにとらえているだけだ。画面でyesかnoを選ぶだけの人生では、純粋直感など降りて来ない。そもそも培われていないからだ。例えば、窓の外の光の差し具合を見て、今何時だろうか?と思う、出張で他所の土地に行くと、あ、ここは日没時間が1時間くらいちがうのか、と思い至る。カチカチ動く、人工的なつくられた時間を目視して暮らしていてはそんなことは分からない。自然児といったりするが、幼い頃は、まだ、いくらかそんな感覚も残っていただろう現代人でも、だんだん退化してしまう。
もっというと、純粋直感は、宇宙を統べる法則にかなう、唯一無二の直感で、微塵の疑いもない、命をかけても大丈夫なくらい絶対的な感覚のこと。いざという時、それがわかるかどうかで人生は180°反対になる…

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