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常識と非常識のあいだに

前回、句読点「。」のふしぎを話題にしたら、いや、そんなもんじゃないよと、昭和と平成の常識vs非常識を聞き、ひゃー、とさらに驚いた次第です。ほら、こんないいまわしも、もう過去完了形でせうね、次第って何ですかと。拝啓と敬具くらいは残っているのかも知れないが仕事では使わないし、日本文化的形式がもはや全面的にNGらしい。初回訪問では「お世話になります→はじめまして」「何かございましたら→興味がございましたら」というのが正しいそう。ま、まちがいではないし、よりビジネスライクに明確にというのだろうが、自国の文化を捨ててわざわざ西洋人になってしまう流れ。「乗っとられた思考」でも書いたが、1985年以降、この絶対支配的なおかしなスタンダードにとって変わられてしまった。言葉と素朴な信仰を止められたら国は滅びる。大袈裟ないい方ではなくて、歴史的にもそれは自明。昔は、山紫水明といわれた列島の水源も買い占められていると聞くし、売買が成立したなら売ったひとがいる。昔はそういうのを売国奴呼ばわりしたが、閉鎖的で嫌な意味ではなくて個人といえど公を考えよ、という意味もある。わたし自身は、明治維新以降、もう、国はないと見限ってしまっているので、仕方ないかと半ば諦めてもいるが、それと個人の人生の幸せ発見は別で、なんとかせんとアカンと思う。若者の自殺率No.1はマズ過ぎる。大きなお世話かも知れないが、終わりの近い老人でも、わざわざ不幸なまま生きる必要はない、意識が変わればいいわけだから。

わたしたちは、物理的な幸不幸はあれ、金や立場が幸せのすべてではないと気づいている。もちろん、資本主義の世の中でそれは大きな力を持つが、それだけではさもしいと。わたしのように、この支払いどうする気?何で平気でいられるワケ?頭おかしくね? という開き直り型精神修養もある。この場合、事実を無視するわけではなく、悩みの現状を凌駕(意味を読み変えて小に)しようと。自分の過去の記憶に照らし合わせた、正誤の判断では経験したことがない規模のアクシデントや恐怖は凌駕できない。
じゃ、ほんとうの幸せって何なんだという問いをわたしたちは気の遠くなるほどの年月、考え続けてきたハズ。その答えは、テクニックではなくて、顕在する自我を黙らせることにあると、ほんとうは薄々にでも気づいている。

春になって、ひと知れず咲いた花を見たらうれしい、誰がの幸せを聞いたら思わず拍手する、赤の他人の赤ん坊が笑ったらこっちまでつられて頬がゆるむ、これが、自我(欲望)を通さない大円鏡智(だいえんきょうち)=幸せの種。わたしたちは、先祖代々、そんなふうに生きてきた。無意識下で無差別智が感じとる情から湧き起こる情緒。義理と人情の板挟みなどと形容される正誤だけでは測れないこと、罪人に対する情状酌量の余地というのもある。良いとこまで、自分から捨ててしまうことはない。機微のわからない人間になったら、おしまい!


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