めまいのする逆さ映・内藤礼「生まれておいで 生きておいで」展にて
内藤礼さんの、「生まれておいで生きておいで」展を、見に行った。
東京国立博物館内で三つの会場を渡り歩く、不思議なインスタレーション。
始めの会場は、最も薄暗く、神秘的な部屋。様々な色のモールや透明なビーズがたくさん、長い糸で吊り下がっている。
部屋の中で明るいのは、展示用のガラスだけ。いつもなら向こう側に展示品が置かれているそれには、柔らかそうな白い布が敷かれており、点々と、いろいろなものが置かれている。
白くて丸いもの。
鏡。
縄文の土器。
ガラスの向こう側は、縄文の時代なのだろうか。
ときおりガラスには「穴」が空いている。
覗いてみると、こちらを見つめてくる自分がいる。
中央で、部屋は微妙にシンメトリーになっている。
歩いているうちに、ふたつのよく似通った世界を通り抜けているのだ。
でも、どこかが違う世界、
その違いを見つける楽しさもある。
私は、魂のように浮かぶ半透明の風船に、こころを奪われていた。
長い座椅子に座ると、向こう側から歩いてくるひとびとが目に入る。
じっと見ていると、自分がまるで眼球になったような心地。
ガラス玉を見上げていたり、「穴」を覗いていたり、あるいは足早に通り過ぎていったり、いろんなひとがいた。
ここにあるものは、ひとがいなければ生きなかったろう。モールは魅力を振りまくみたいにカラフルだし、ガラスは恥ずかしがって透明だ。
ひとのいる空間そのものが、この展示なのだと知る。
二つ目の部屋は、自然光の入り込む広い部屋。
天井から、雨のように透明なビーズが降り注いでいる。床にはいくつか、ガラス箱に閉じ込められた縄文の土器が置いてある。それを見下ろす。
ガラス箱の上に、樹木の枝や石、絵などが置いてあって、その下に、焼かれた土くれの人形が立っていた。
そうだ、と思う。いつだって過去は、見下ろす形でそこにある。
語弊を恐れずに言えば、たとえば葬式の故人は、生者に見下される形で棺に横たえられている。
ここに展示されているのは、私たちが生きている土壌の奥深くに、眠っていた縄文の土器たち。
私たちはいつでも、過去の上に生きている。
私たちの頭の上には、ガラスのビーズが降り注いでいる。
下には縄文があり、私たちがいて、上にはガラスの天(あめ)がある。
私たちはいつか死ぬと、滅びる身体が下に向かい、滅びぬ魂が上にゆくのだろうか。
見回すと、水彩のスケッチが部屋を取り囲んでいる。
手前では、観客が一列になって座ることのできる座椅子があって、くるりと振り返って向かい合うと、観客たちは死者のように見えた。
きっと生者のための座椅子なのだろうが、私自身が死者に近しくなっていたためか、彼らも同じ死者のように見えたのだ。
時間の停まったような部屋から、薄暗い通路を抜けて、博物館に戻る。
最後の部屋は、部屋でなかった。
そこはいろんなひとが通り過ぎる、通路の真ん中だ。
水の入った瓶が、逆さになった空き瓶の上に置いてある。瓶の水には窓から入った自然光が溜まり、ふっくりと美しい。
もちろんこの通路にも、壁の何処かに「穴」がある。「穴」を覗けば、向こう側から自分が見つめ返してくる。
座椅子に座って、通路の真ん中の瓶を見つめる。
それはあまりにも、ただの水が入った瓶だった。
この瓶はなんなのだろう、見回しても答えになりそうなものはない。
ここまで来た私たちにあまりにも不親切ではないか、いやいや自分が答えを受け取りそびれているのだ、瓶がここにある意味はもう私の手の中にあるはずなのだ、といろいろ考えてみるけれど、私はこれだという答えを見つけられぬまま、最後の部屋をあとにした。
いま、この文章を書いている私に、その瓶の意味が分かる気がする。
逆さになった空き瓶が、水=いのちを失った死者なら、その上に立つ、水をたたえた瓶は生者なのだ。
いのちをたたえた瓶。
死者に支えられて立つ生者。
生者の、なんとその美しい水だろう。
また死者の、なんとそのしっかりと立つ頼もしさだろう。
この展覧会は、上と下、ここと向こう側の逆さ映しにこころを惹かれる、素晴らしい時間を産んでいた。
展覧会は、これから、銀座で開催された後に、また博物館に戻ってきて完成するという。
もしかしたら、ここと向こう側を行き来する旅路は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
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