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とある少年に向けて。


とある少年に向けて。


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君がもし、

真理



こういう言葉は使いたくないのだが

真理というものを

何かしら知りたいと願うなら
伝えたいことがある。



私たちが考えることは、人の脳が考えた答えにすぎない。

真理という言葉から受ける印象ほどのものではない

という前提で探求してほしい。


だからといって、意味がないのではなく
私たちは、自分自身が観たい世界を体験するために
あえて生まれてきている。


私はそう信じているし、信じたい。


観たい世界というのは、好きな世界じゃなくてね。






もし君が、


真理


こういう言葉は使いたくないのだが

真理というものを
何かしら知りたいと願うなら

導き出されている答えから
探そうとしないことだ。



君は必ず、

今、言われていることとは
全く違う世界を体験する




今は、

全ての人が何も見えていない…という前提で
見直してみるといい。



例えば、私は今日、庭いじりをした。

庭を整えるために草を抜いた。


花をきれいに咲かせるために、草を抜くわけだが
率直に言えば
命に差があるような扱いをしているということだ。


簡単に言えば、草の命を粗末に扱っている。


このことをどう弁明しても、
どう理屈をつけようとも
それは事実だ。



こういうことを書くと、自然農法ではとか
禅の世界観を語る人がでてきたりもして…
私自身そういう話は好物だが

その正しさを知る以前に、命は尊いものであり
命は極力…守るべきものだ。


けれど、事実として、草を抜いている。


私は以前、ある人に「君は徳を積んでいる」と言われたことがある。

簡単に言えば、助けていることが多い。ということのようだが
命を粗末にした数より、たくさん助けたから良いというものではない。

数の問題ではないと思わないかい?



ペットは守ろうとするが(もちろん守るべきだが)
事実として豚肉を食べている。
イルカを守ろうとするが(もちろん守るべきだが)
事実として牛肉を食べている。


「私はお肉を食べない」という人もいるが
植物も動物も命には変わらない。ウイルスですら。


ここで言いたいのは、そういうことではない。




君の人生として語っている。



単純に、
ガーデニングを楽しんでいる人命を粗末に扱っている人
が、多くの人の憧れの暮らしを手にしていたりする。

東京では、庭のある一軒家は、ある意味憧れだ。


これが幸せとは私は思わないが、
多くの方が憧れる暮らしが
命を粗末にしても手に入るということだ。

事実として。





もう一度繰り返してみる。



君がもし、

真理


こういう言葉は使いたくないのだが

真理というものを何かしら知りたいと願うなら
伝えたいことがある。




だとするならば、

人生で手に入れたいと願うこと》と《様々な考え方》は
全く繋がっていない


お金持ちが、性格が良いとは限らない。
君が性格を正しても、お金持ちにはならない。笑


考え方の先に、君が求めているものがあるのではない。ということだ。
努力の先にも残念ながら、ない。




では、どこにあるのか。

それをぜひ、君に考えてほしいのだ。






何かを手に入るためには、やってはいけないものがある。

そういう考え方が無いものが人生なのかもしれないね。



様々な考え方は何かをしたら望む結果が手に入るという

様々な考え方は何をしてしまったら人生が転落するという



それが全く当てはまらないことを
ただの “庭いじり” が示している。



だから、「私は自分が好きなことをする!」という考え方ですら

何をしたら幸せになる』という方法論の中にいる。




庭に出て
《人の人生》と《ダンゴムシの人生》は、何が違うのだろう…

と思いを巡らしてみてほしい。



体験をしなくても
想像力でも気がつくことはできる。



ダンゴムシは、人に踏まれてしまう。
アリの巣は壊されてしまう。
草の根本に入り口があったりしてね。



もし、多くの人がいう神がいるとして

命というものを平等に扱っているとするならば
人だけを守るはずはない。



ダンゴムシも守られるはずだ。



でも、守られているようには… 君にはみえない。

ならば、神は命を平等だと思っていないことになる。
ダンゴムシが守られていないなら、
人の命も守られていない。



などという(笑)
悲観的なことをここで言いたいのではないし
神がいないということを伝えたいのでも… もちろんないよ。




シンプルに、命が平等に扱われているとは思えない現実がここにある



そのことを、また今ある考え方に繋げないでね。
人の命の話ではなく、命の話だからね。


人は、細分化していくことを、
深まったと感じてしまうから。

この場合は、あの場合は…と複雑に考えて
シンプルなことが観えなくなる。

状況によって答えが違うと思ってしまうんだ。




君が質問していたね。

「なぜ、ニュースなどで被害者の個人名や
言わなくてもいいような情報を伝えるのですか?」と。

人は、細かな情報ほど深い話だと信じてしまっているのさ。

複雑なほど、体験できそうではないものほど
その真理というものに行きついていると信じて疑わない。


真理からしたら、いらない情報でしかないのにね。

もっともっと、君がシンプルになった時
きっと君にも、様々なものが観えてくる。




ダンゴムシは守られているようには思えない。

けれど、
私が数多くの人生に向き合い、人生に立ち会った時
奇跡としか言いようのない現実を
数え切れないほど観てきている。

これは、求めていた結果がでた…というレベルではなくてね。




それは、『人は守られている。』

としか思えない現実だ。




必ず、そこには何かがある。

そうとしか思えない現実に遭遇し続けた。

では、人だけが守られているのか?

そんなはずは絶対にない。



そこを見ていくと、人生というものが観えてくる。



人の人生も、ダンゴムシの人生もだ。
そこには宇宙の人生すら観えてくるかもしれない。



人生そのものが観えてくる。



多くの考え方は、宇宙の人生をみて
その中の一部が人だ。ダンゴムシだ。そう考えていく。


でも私は、人の具体的なリアルな人生から読み解いていく。

そこには、全ての関わりが観えてくる。
それほどリアルなことはない。



また繰り返すね。



君がもし、

真理


こういう言葉は使いたくないのだが

真理というものを何かしら知りたいと願うなら
伝えたいことがある。



私たちが考えることは、所詮、人の脳が考えることだ。

だからといって、意味がないのではなく
私たちは、自分自身が観たい世界を体験するために
あえて生まれてきている。

私はそう信じているし、信じたい。


ある意味、脳があるからこそ
この身体があるからこそ
私たちは感じられる。



その身体で感じることの中に
生まれてきた意味はあるはずなんだ。




それを知った先に、言葉などでは表現できないものを
必ず感じられる。



これは、第六感的なことでは決してない。

自分自身の人生というものをだ。




私は、真理という言葉すら使いたくないほど
真理には興味はないけれど

君が、自分自身が観たい世界を体験するために
あえて生まれてきていることを知っている。

だから観せたい世界がある。

だから書き残している。



私は、

苦しんでいる人に
自分自身の人生を歩んでいただきたいだけなのだ。

問題の原因を自分に向けても
環境に向けても、幸せになれるはずはない。

探し求める旅はもう終わりにしてほしい。』


誰も幸せにならない、否定も見ていられない。


当たり前な視点で人生を観れば
様々な考え方が、
ほんの一部にしか対応できていないことに気がつけるはずだから。


一部のものを深めていっても、
君が求めているものはない。




また一つ例をだすね。

小学生が痴漢にあったとしたら、
それは、その小学生に何か問題があったのだろうか。

引き寄せたはずもないし、現実化したはずもないし
そこにエネルギー的なものが関わってる?…はずもないよね。

そのことで、小学生が
何かに気がつかなければならない… はずもない。


その子が変わる必要があるのかな?


そんな、当たり前なことに
様々な考え方は当てはまらない。




小学生が、その出来事で気がつかないといけないことがないならば
大人も、そんな出来事で気がつく必要はないことになる。


出来事に意味づけすることは様々なシーンで必要な時もあるけど
意味付けしたことで、見えなくなることが
たくさんあることに気がついていてほしい。


たとえば、様々な意味付けというものは

「運動不足だから週末には散歩に行こう!」と決めて

その日「雨だから、散歩に行くなと言っているんだ」と思って。
(誰が? 笑)

そこで、テレビをつけてみる。

そこに映し出されたものは、見忘れていたドキュメンタリ。

「これを見るために、雨が降ってくれたんだ」

というように、私たちは疑いもなく意味付けしてしまう。



気がついたよね。



雨の中、傘をさして歩いたら、
全く違う展開が待っていたかもしれないんだ。

こうして、疑いもなく私たちは見失う。



でも、これは、雨でも決めたことはちゃんとしよう!という
話ではないことはわかるよね。笑


人生は、決めるとか決めないとか
正しいとか正しくないとか…そのことで結果が出るのではない。



けれど、私が観ている人生というものは
そのドラマ化(正当化)を外した時に
とても完璧で深淵なものが観えてくるんだ。



だから、散歩にでなくてテレビを見ていてもいい。
そこに気がつけないほど巧妙に人生は動いているから。



君が、それを自分自身の人生で感じたいと思うなら
様々な考え方は、
ほんの一部であり正しいわけではない。』ということを
自分自身で確認して体験する必要がある。



これは、否定や疑うという意識ではない。

本当のことを
自分自身の人生で知りたいと願うことだ



私が観て多くの人に語っている人生というものは
この、幼少期の痴漢すら必要だったことを
その人自身が納得できる形で気がつける。




本質というもの。

本質的な人生の流れというものを知った時初めて…

過去の出来事や関係が、全く違う人生として観えてくる。




もちろん過去だけではない。
これからの人生も君の人生として生きてゆける





また繰り返すが、私は

苦しんでいる人に
自分自身の人生を歩んでいただきたいだけなのだ。

本質を知らなければ、幸せになれないという
軽い話をしたいわけではない。

本質など知る必要もない。


私は多くの人が、
自己否定と他者否定(環境否定)の中で
苦しんでいることを知っている。

だから、否定なく人生の深淵さに気がついていただくために
本質の話を語る必要があるだけだ。




否定を無くすためには、本質を知る必要がある。

ただそれだけのこと。





本当は、語りたくない。

それは、私に関わってくれているほとんどの人が知っている。

私はとてつもなくめんどくさがり屋…なのだ。


でも、どうしても放っておけない。




何かの否定の先に、人生が変わると信じている人が多すぎるから。

何かを手に入れることで、当たり前な関係性や
生まれてきた意味すら見失っている人が多すぎるから。

だからこそ、ここに書いている。
何かの否定ではない。

何か正しいことを伝えたいのでも全くない。




ある意味、天動説と地動説の違いくらい
全く観ている世界は変わるが
見ている空は何もかわらない。

どちらを信じていても、何も変わらない。

さらに言えば、地球が回っているか天が回っているかといっても

どちらも正しくない。
星々全てが動いているのだから。




君の人生から、否定がなくなってほしい。

ただそれだけなのだ。

探し求める旅はもう終わりにしてほしい。』



当たり前な視点で人生を観れば
様々な考え方が、
ほんの一部にしか対応できていないことに気がつけるはずだから。

一部のものを深めていっても、
君が求めているものはその先にはない。





君が、君自身の本当の人生に気が付けるまで

それまで君は、
「今何かに気がつかないといけない!」
「乗り遅れてしまう」などと思わないでいてほしい。

痴漢にあった小学生と同じだ。





自分自身に戻ることに時間などかからない。

付けてしまっているものを外せばいいだけだ。

それに気がついていないで、付け続けてしまっているだけだ。



さらに言えば、君の人生は
君が気がつけないことぐらいわかっている
。笑

気がつかなければ取り返しがつかなくなるようなことは
絶対に起こらない。



起こるとすれば、君が正しさの中で探し求め、

人生が止まってしまっていることに
気がついていない場合だけだ。

その場合でも、間違った人生ではない。
止まっているだけだ。
そのまま人生を終えることにはなるが。


でも、そんな場合でも、本質はちゃんと動き続けてくれている。

少しでも、君が観たい世界を感じられるように
その狭い意識の中で。

それほどまでに、私たちの人生は深淵なんだ。





君がもし、

真理


こういう言葉は使いたくないのだが

真理というものを何かしら知りたいと願うなら

導き出された答えから探そうとしないことだ。




全ての人が、何も見えていない…という前提で
見直してみるといい。

これは否定ではなくて、当たり前なことなんだ。




《雀が見ている世界》と《人が見ている世界》は当たり前だけど違うよね。

《トンボが見ている世界》も違う。


なら人が見ている世界だけで、命とか真理とか宇宙とか言っても
それはほんの一部の話だ。

そういう意味では、動物から学んだり、
動植物を擬人化することも意味はないよね。




昨日は満月だったらしい。
そんなことも知らないで、私は庭に出て月を見上げた。
月を見上げたのは何ヶ月ぶりだろう…。

月の大きさや、満ち欠けに意味を見出そうとしたりもするけれど
私たちはそんなリズムの中で生まれ育ち、それを空気のように感じられているはずだ。

意識などしなくても、体が反応するはずだよね。

なのになぜ
意識をしないといけないというのだろう。


「人は本来感じられるべきものを感じられなくなった?」

ほんとうにそうなのかな?




感じる必要がないのかもしれないよね。




それはわからないよね。

それで良くないだろうか…。






君の人生に必要だと感じたら
ぜひ、それに意識を向けてみてほしい。

私も様々なことに意識を向けてみて今がある。




だから、その様々なものは在っていいと心の底から思っている。

それを正しいこととしないならば。


本来は重力と同じように、あることが前提で私たちは生きているよね。

それを感じられなくなったら、意識する必要はあるけれど
君はきっと当たり前に感じているはずだ。


月がきれいだな

そう、空を見上げるならそれでいい。



きっと、君が動くタイミングには全てが勝手に動いてくれている。
様々なこと、様々なもの。

それを意識などしなくても、
君は本当の君に戻れば
全てを味方にして君らしく生きられる。

せめて…意識ができなくなってしまった人には
意識をしたら自分に戻れる
ということならば良いのだが
残念ながら、それは戻ったんじゃない。

それを正しさとして身につけただけなんだ。

それがないと自分らしくいられなくなる。



自分に戻る時に何一つとして
意識するようなものはない



戻る方法は、こうした…
当たり前なことに気がつくことだ。



何かを学んで戻るんじゃない

何かを信じて戻るんじゃない




本来意識する必要のないことに意識をすれば
他力になっていく。

自分を高めようとしているのに
逆に自分を見失うことになる。




君が何かを手放したら、何かが入ってくる…なんて思うのは
錯覚でしかない。

確かに、狭い部屋に大きなソファーを入れるなら
捨てないと入らないかも知れない。

でも、そんな小さなことは
人生には起こっていない




制限を外すとか外れていないとかも問題ではない。



そんな小さなことは
人生には起こっていない



自分自身が限界を作っているとかいう以前の問題だ。


そんな小さなことは
人生には起こっていない



何も手放さなくても、必要なものは入ってくる。
当たり前のことだよね。


人生にスペースなどない


お金がどういうものか、病がどういうものか…という考え方も
矛盾だらけだ。

だからといって
お金だろうと病だろうと偶然ではない。




きっと、君なら簡単に気がつけるはずだ。



今の君なら、その当たり前なところに簡単に戻れる。



人は、何かが欠けている。そう信じ込んでいる。
何かが足りない。何かがおかしい。

そう思う瞬間は必ず、結果がでていない瞬間なのだ。

結果のために自分自身を変えていってしまう。


結果のために人生が訪れていないというのに。


だから、環境や人間関係を排除する必要があるんだ。
結果を出さなくてはならないから。

でも、排除をしたとバレたらカッコ悪いから、正当な理由を探す。

それが多くの考え方の源だ。




影響を受けなければ、排除なんてしなくていいよね。

影響を受けてしまう人が、
いろんなことを考えているんだと思うよ。





君は弱者じゃない


君は、今の現実の中に
知る必要があると思えるものが何もなかった…ということだ。


それがわかれば、君が答えを見つけられなかった意味がわかる。

だからこうして私は、手紙を書いている。





君が知りたかったことは、『どこに答えがあるのかではないはずだ

もう君は、どこにも答えがないことを知っている


目先を変えて、新しい文化に身を投じても
そこに得ることがないことを君は知っている。


君が今見ている世界には答えがない

求めなければいけないものもない


そのことが自体が知りたかったはずだ




君がこれから、
自分自身の人生を歩んでいくために。

でも、君がこれから気がついていくことも
ほんの一部でしかないことを忘れないでいてほしい。

すべての考え方はほんの一部だ

一部ということは正しいわけでははい


私がこうして語っているものもほんの一部だ

一部ということは正しいわけでははい


こうして様々な考え方があってくれるからこそ
君の中で
本当の君の想い》が、形作られていくんだ。



だから、様々な考え方を排除してはいけない。

一部はちゃんと表してはいるのだから。



君の人生の上で形作るために

様々な考え方は『どのような一部なのか
それを知る必要がある。



それを君が知れば、
多くの方に寄り添うことができる。


様々な人それぞれが、
自分自身が観たい世界のために生まれてきている。


それは否定されるようなことではない。


私たちは、何かの結果のために生まれてきたのではない。


何かの結果を求めそれを目指せば

今のものが壊れる代償として
苦しむ人がたくさんでる。



それを善とか悪とか言っていてもしかたがない。

そこに答えなどないのだから。




君は様々な
一部である考え方を知って
その苦しんでいる人たちに寄り添いたいはずだ

良いように進んでいる悪いように進んでいる…

そんなことよりも
一部である考え方を知って
その中で苦しんでいる人たちに寄り添いたいはずだ


時代の流れや社会の変化がどこに進むのか…という
興味は置いておいて
君は、その人たちに寄り添いたいはずだ。


君が、観たい世界はきっと
みんなが幸せを感じる世界のはずだから。



どこに進むかを知っていなくても、今、君が
人に関わろうとし続ければ
君の観たい世界で、みんなが笑っている。




そのために君は生きるしかない。



その中で、君らしくいて
想い続けるしかない。



そんなシンプルな想いの先に
君が観たい世界は必ずあるはずだ。



君が変わらないと、観たい世界が観られないなら
生まれてくる意味がないよね。


君は変わらなければいい。




君はブレることなく、君であり続けるために

真理というものを知りたいならば
ぜひ知ってみてほしい。



そこに君が観たい世界は必ずある。



私が伝えられることは惜しみなく伝える。

私が観た世界として。




もし、変わってしまっていたら
戻ればいい。

そんな君のことをいつも必ず
人生は観ていてくれる。


それを忘れないでほしい。




君が気がつけないことくらい

君の人生は知っているのだから。笑




私は、そんな人生を
たくさんたくさんリアルに観てきた。

きっと、今これを観ている君が
その真理というものを
それぞれに見つけていくのだろう。


それを、私は愉しみにしている。

そら:山本博




どこにも君よりも優れた人なんていない。

もちろん、私も含まれている。


君の人生は、君が観る世界なんだから。


それを応援している。



私について
https://note.com/sora_ni/n/n773d4f893f4d

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