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覚醒に方法はある? ホールネスワークを読んで

人類が文明を持ち、進化発展するその最大の目的は、『恐怖との訣別』の一言に集約されるかもしれません。

言語と思考を手に入れた人間は、時間という概念を持つ地球上唯一の種となり、巨大な繁栄を遂げました。

しかしながら時間という概念があるために、過去に後悔し、未来に不安を抱きます。

しかし、概念とはどこまでもイメージであって、実体ではありません。

こうして人間は思考という、極上の便利なツールを手にした反面、思考にしがみつくと逃れられない不安と恐怖に追い回されるという宿命を背負っているとも言えます。

そこで人類は、完璧な世界と存在を想像しました。

それが死後の世界や神の存在と言って良いでしょう。

そして不安と恐怖をマネジメントし、克服するものとして宗教やスピリチュアルが発展して行ったと考えられます。

恐怖からの解放は、救済という現象であって、どちらも生命というコインの表裏としても見えます。

この100年は、科学技術のめざましい発展で、人を救うという分野は一般的には医学をともなう科学技術に分配が上がっているとは多くの人が認めるところかと思います。

しかし、人は何故生き、何故死ぬのか。死後人はどうなるのか、という根源的問いにはまだまだ科学技術だけでは完全に解明は難しいでしょうし、

科学技術という狭い窓で、全ての宇宙を理解しようとすることが最初からナンセンスだという意見は的を得ているように思得ます。

悟り、覚醒

こうした神、死後の生、と言った概念に並んで古来から人間の関心を捉えて離さないものがあります。

それが覚醒や悟りという概念です。

日常的には簡単に覚醒したとか、悟った、という表現はよく見られますが、

仏陀やキリストがその最も代表的な存在として、人類の意識にインプットされています。

実は彼らは、存在しないのではないかという研究者もいるぐらい、彼らの存在を理解するのは困難でありながら、同時に最も魅力的な存在としてあります。

いったいキリストや仏陀を知らない人間は全人類の何%いるでしょうか?興味深いです。

キリストや仏陀に続いて様々な救済者や覚醒者が存在しています。

彼らの共通するところは、

この世が幻想であると見抜いていること、

全ては変化するということ、

全ては愛であるといこと、

私、という個人的な行為者は存在しないということ、

時間は幻想で実在しないということ、などです。

ぱっと見、一般的には、訳がわからないことばかりです。

そしてスピリチュアル的なワーク、修行はそれらの状態に近づくためのものとおおよそ理解されています。

しかし、それらの修行や修練をつんでも、近づくことはできても決定的に、覚醒や悟りの状態になる要因にはならず、かえって執着になり有害ですらある、と解釈されたりします。

思考で生きている人間にとっては全く理解し難いことで、バカバカしく思えたり、その矛盾に辟易してしまいます。

しかし、それでこの分野がなくなるかといえば、これまでもこれからも、永遠に無くならずに、相変わらず人びとを、魅了し続けるでしょう。

主従感覚追及思考

何故科学技術がここまで発達したにもかかわらず、この現象は無くならないのか?

それはこの覚醒に対する期待が。人間の遺伝子に、組み込まれているからともいえます。

先程述べたように古来から人間は、恐怖との訣別を最大のモチベーションにして生きていました。

恐怖からいっときも離れるために、人間は『従う』ということに、安心や解放を得るよう何万年も条件づけられています。

凄く身近な例だと、取り扱い説明書や、道路標識と言ったマニュアルは、ある意味分からないという不確定で不快な状況から、安心へと導いてくれます。

また、先行きが分からない状況になった時に、とりあえずトップダウンで指示が降りて来たり、カリスマ的な存在が導くと、セロトニンやドーパミンが出て安心するだけでなくやりがいも生まれます。

主従感覚追及思考は、説明書のマニュアルに、従順に従っつという面でとても重要です。これがないと、巷の道路は世界一危険な所になってしまいます。

また、何か技術を教わったり、逆に伝える時にも便利な思考感覚です。

しかし恐怖が強すぎたり情報を提供する側が、自分が絶対という感覚な強過ぎると大きな問題が生じます。

情報の受け手が恐怖が強すぎたり、情報提供者が自分の立ち位置に悦に浸ると、お互いの需要と供給が、マッチしカルト的な関係性が発生します。

虐待、DV、パワハラ、そして未熟な宗教やカルトにはどこかこの主従感覚追及思考が忍んでいるのが伺えます。

そのモチベーションは、多かれ少なかれ恐怖です。

主従感覚追及思考がはびこる中で、違う意見を言うということは、脳内で死を連想させます。

なぜなら人類は、集団から追放されるという行為は、古来から実質的な死と同じことだったという、遺伝子の記憶が残っているからです。

釈迦が生きていたカーストの絶対的な時代に、釈迦は女性を弟子に取るということや、癩病患者に癒しを施していたキリストは、当時では考えられない現象だったでしょう。

権力者やそれに追従するものは、大きな恐れを感じていたに違いありません。彼らのその大きな恐怖の背景には、救済を求める痛みが仏陀やキリストには見えていたことと思います。

覚醒する方法は

神はいるかいないか?という議論が時々見かけますが、誰も神を定義できないのにそんな議論は無意味のような気がします。

同じく覚醒する方法はあるのか?という問いかけに、覚醒という概念について共通する定義が存在しないので、議論になりづらいということ。

また、ノンデュアリティのスピーカーは、そもそも個人という私が幻想なので、目覚める私も存在しないという身も蓋もないような、それでいて的を得た表現を、よく聞きます。

また、覚醒についてあまりにも神聖視されているために、暗黙の巨大な主従感覚追及思考という檻に閉じ込められた人間が、覚醒するマニュアルなどないと決めてかかっているのかもしれません。

その為永遠に覚醒や悟りが彼岸の概念に成り果てているのかもしれません。

そんな中この本は、ある意味とても衝撃的でした。

この本は、全く怪しげでもなく、スピリチュアルというよりは心理学に寄った内容と捉えた方がいいかと思います。

NLPという心理科学的メソッドを発展させて、覚醒体験や悟りの再現性に寄与するような内容でした。

著者が心理学的アプローチとスピリチュアルの探究から得た知識体系とマニュアルです。

読みながらワークも行う形式なのですが、個人的に長く抱えていた人間関係のしこりと痛みが、ほぼ薄まってしまいました。

セルフワークでも十分効果があるので、なかなか解消出来なかった感情の解放に繋がるかもしれません。

そしてとっても読みやすいので、読み進めるたびに解放が起こるかのようでした。

著者は、別の作品コアトランスフォーメーションでも有名で、こちらにご関心がある方は、ホールネスワークも気にいるかと思います。

覚醒は選ばれた特別なものではなく、誰しもが生まれながらにゆうする権利だと、スピリチュアルティーチャーや、マスターと呼ばれるひとはいいます。

とても自然な現象だとも。

しかしながらそれは、上記の理由からなかなか理解し共有されることが稀でした。

ひょっとしたら現代は、その権利が溢れる時代で、この本はその権利を用いるきっかけになるかもしれない。

そんなことを感じさせられた本でした。




























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