宇宙は数学的な場所ー夢がかなうことー
願いが叶う時、何が起こっているのだろうか?
この前、僕が散歩をしているときに、何気なくいつもとは違う道を歩きたくなって
いつもとな違う道なりの散歩を楽しんだ。
そうしてしばらく歩くと、公園があったので、机と椅子があるところに行き、少し読書をすることにした。
僕の後方には、中学生が3人サッカーで遊んでいた。
5分もしないうちに、僕の前方から、電動自転車に乗った50代のおばさんと思われる方が、その中学生の所に急いで駆けつけて、何やらあわただしい様子で話をしていた。
「すみません、ここで財布を見ませんでした!?」
とおばさん。
「あっ、30分ほど前に、誰かが財布をもって、交番に届けなきゃと言って、どこかに行くのを見ました」
と中学生。
おばさんは
「えっ、じゃあ、この近くの交番はどこにありますか?」
「え~、どこだろう・・・」
中学生は3人ともこの付近の交番の場所を知らない様子であった。
僕は偶然、昨年この付近で財布を無くし、散々探した挙句、親切などこかのおばさんが、僕財布を交番に届けてくれていたというあったことを思い出した。
その時には、現金やら免許書、クレジットカードから、様々な身分証明書と、貴重なメモなどが入っていたので、かなり焦っていたのだ。
僕はそのおばさんと中学生たちの会話に入り、自分が軽く似たような状況があったことを話した後、近くの交番の場所を丁寧にそのおばさんに伝えた。
そのおばさんは、何はともあれ急いで交番に出かけて行った…ということがあった。
僕はその出来ごとがとても不思議な現象のように思えた。
なぜなら、普段その公園に散歩して読書などしようという習慣は、まったくないからだ。
その日以降もそのような散歩コースは歩いたことはない。
何かに導かれるようにその公園のベンチに座り、数分もしないうちに困ったおばさんが来て、その困ったおばさんの回答を僕はたまたま偶然もっていたのだ。
そんな偶然ってあるだろうか?
人間の認識では、皮膚の内側を自分、外側を自分ではない他者として認識する。
しかし、量子論的な視点から言えば、人間の自分と他者という概念が勝手に境界線を作っているだけだ。
素粒子までの最小の視点で世界を眺めると、私もあなたも、日本人も中国人も、アメリカ人も、黒人も白人も、動物も植物も、魚も、海も空も岩石も、山々や空に浮かぶ雲も、
全て素粒子の海の波の一つの現れにすぎない。
その中で、私たちは個別性という便宜上の役割を持ち、個々という概念から互いにコミュニケーションしながら存在している。
凸と凹、問題には回答、疑問には答え、需要と供給
というように、
世の中はコミュニケーションしながら成り立っている。
コミュニケーションがうまくゆかないと、その場のエネルギーは淀み、停滞してゆく。
何らかの問題や悩みがあるということは何らかの回答がどこかに存在している。
それは決して一人の存在の中で自己完結するだけで済むものはほとんど少ない。
自分一人で問題解決できるのならば、私たちは他者という個別の存在も必要ないし、究極的には、各々の存在はなくてもよくなってしまう。
自分や他人の中に何かの悩みや問題が生じると、どこかに同時に回答が生じる。
そして、その問題と解答が出会ったときに、次のステージへとその個人と関係者は移行することが出来る。
その財布を無くしたおばさんは、中学生や僕がいなければ、ずっと公園を探し続けていたかもしれないし、
結局違う場所を永遠と探していたかもしれない。
それならそれで違うパラレル宇宙が展開するのだろうけれど、今回は財布のヒントを得て交番にそのおばさんは向かっていったという宇宙が展開された。
その役者の配役を行っているシステムは何なのだろうか?
何となく僕の脳内に「今日は、あそこの公園で読書をしよう」という考えを吹き込んだ「働き」とは何なのだろうか?
これが財布ではなく、人名や国家の存亡、人類の命運を分ける出来事という状況であればかなりドラマチックだ。
まるで高次元の視点から、チェスのコマのように必要な配役をあてがう存在が介入したかのような経験だった。
おそらく、その背景の展開は人間では理解し、認識することは困難なのだろう。
そういう働きを、昔から、天使の介入、ハイアーセルフ、守護天使の働き、神の啓示、
などと呼んだのではないだろうか?
そしてそれは
まったく人間が気が付かないだけで、
今この瞬間にも働いている人知を超えた力なのだろう。
その働きに「生かされている」と感じ、
多くの人々は神に祈ってきた。
現代は、「私」というマインドは誕生した時から両親と社会に条件付けされプログラミングされてきた結果だという見解が主流だ。
だから「自分」という存在は厳密にいえば幻想で、これは仏陀の見解と同じだ。
ただ現象が起こっているだけ。
出来事の連鎖が過去から未来、未来から過去へと流れているように見えるだけで、僕らはその流れの座標のどこに意識を置くかで、目の前の現象と心の在り方が変わるのだ。
これはニヒリズムではなく、体感すると大きなエネルギーのうねりを感じ、
ただその大きなエネルギーに圧倒され、感謝の念しか感じないかもしれない。
しかし、明日の仕事のこと、子育て、収入などホモサピエンス特有の生き残り為の、現代特有のサバイバル様式も同時に存在する。
生き残るために、あくせく動くあの焦ったような感覚だ。
以前の僕ならば、サバイバルモードばかりで広大なエネルギーの生命の視点など気には留めなかった。
時ともに、良いか悪いかは別として、こんなユニークな視点もいつの間にか獲得しているようだ。
この視点は成長し、発展するという。
人類の進化とともに。
なぜなら個人という存在は人類という巨大なシステムの一部で、相互作用し互いに影響しあっているからだ。
そして、人類というシステムも、全ての生命というシステムと相互作用的にかかわりあっている。
そうして、様々な問題をお互いの存在を通して問題を解決し、生命と宇宙は発展してゆく。
公園のおばさんが財布のありかのヒントをもらって、探すという段階から、希望をもって交番に行くという段階に変わったように。
宇宙はそうした計算器の場のようなところだ。
その目的は何なのか?
神との合一、愛への回帰…
昔から似たような表現でその答えは語られてきているが、
おそらくホモサポイエンスには分からない、ということが正解な気がする。
小学校1年生は微分積分が分からないことが自然だし、分かってもしょうがないこともある。
ただ分かった気になって微分積分の問題の、丸暗記した回答を連呼してもしょうがない。
まあ、それはそれでかわいい1年生だが。
分からないことは、分からないのだ。
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