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スピリチュアルと発達障害

図形

スピリチュアルと発達障害というテーマには、本質的に同じ要素があります。

しかもとても重要な部分で同じなのです。

それは

「自分という存在に意識を向けて、その傾向とパターンを知り、変容させる」

ということです。

これは自分という存在を俯瞰してみる能力が関連し、それは「メタ認知」と呼ばれます。

これは一体どういうことでしょうか?

発達障害の分野では

例えば発達障害について考えてみます。

発達障害では、その個人内の能力においての得意、不得意の差が激しすぎるがゆえに人間関係や社会生活で生きづらさを抱えてしまうことが多くあります。

とてもはっきりとした障害があるならば分かりやすいのですが、近年よくクローズアップされる発達障害の言葉として「グレーの発達障害」という言葉があります。

これは、発達障害を「黒」(この表現が気に障る方は申し訳ありません。便宜上、わかりやすくここでは二元論的に表現することで分かり易さを得ることを優先させています。)とします。

そして定型発達、つまり何も発達上問題がない場合を「白」とした場合に、発達障害的な要素はあるが、直ちに病院で診断を受けたり、治療や療育を受ける必要がないレベルの人々を「グレー(灰色)」という言う言い方で表現する場合があります。

ちなみに私の場合はアスペルガー傾向とADHD傾向のある、グレーゾーンの発達障害傾向にあります。隠れ発達障害とも言う人がいます。

発達障害はADHD(注意欠陥多動性障害)、ASD(自閉症スペクトラム障害)、LD(学習障害)などの用語が最も有名です。

ちなみに我が家の長男は、かなりはっきりしたLD(学習障害)と不注意(ADD)の要素が交じり合っています。知的には平均域なのですが、描画や書字の能力を見ると小学校高学年にも関わらず、幼稚園児と同じかそれよりも下手っぴです。

また、虐待を受けたり、家庭環境が極端に不具合や問題がある場合に愛着障害という問題を呈する場合もあります。

愛着障害と発達障害は絡み合っていることが多く、大人になってからも交友関係や人生で大きな影響を及ぼします。また、発達障害と愛着障害の分類は年齢を重ねるごとに困難になってゆきます。

発達障害のグレーゾーン、つまり隠れ発達障害は、周囲も自分もまさか障害があるとは思いません。何となく人一倍社会や人間関係において生きずらやさ、不器用さを抱える傾向が多いことがあるかもしれません。

そのため、ストレスを溜めやすく、そのストレスから派生して神経症や精神疾患、慢性疲労、情緒不安定といった二次障害に繋がることがあります。

こうした場合の対応は、まず周囲か、もしくは自分自身がその違和感に気づき、病院や専門家、自治体のサービスなど助言を求めます。

そして、自分自身のことについて内省し、理解を深め、発達障害の傾向があるならば、その傾向を受け入れるという「障害受容」の過程が始まります。

場合によっては発達検査という科学的な検査をもちいて、自分自身の特性を理解するきっかけになることもあります。

この過程はまさに「私とは何か?」という問いかけに向き合い、答えを探し、受け入れて行く過程です。

そして、自分の不適応を起こすパターンを知ることが出来たなら、自分に合った環境を探したり、環境を変えたり、また自分自身の長所を生かすように日々意識して過ごすという変容パターンが始まります。

この時期は、正に古い自分のパターンと環境を変え、より適応し自分の能力を発揮できるよう自分の習慣を変える時期という「変容」の時期になります。

パターンとしては、

1.自分自身を知る時期:何らかの不具合や違和感、障害があり、心地悪い状況をまず客観視し、受け入れ、自分自身と向き合う。

2.自分が何が得意で何が苦手かということを知り、受け入れ、自分自身の取扱説明書を活用する時期:自分に合った環境や人間関係を構築し、以前よりもより生きやすく、心地よく過ごすことが出来る。

という段階を繰り返していくといえます。

スピリチュアルの分野では

一方、スピリチュアルについて考えてみます。

スピリチュアルという分野は前世、来世、精霊、宇宙人、占い、ヒーリング悟り、覚醒…とテーマが多岐にわたり、一見統一性がありませんが、人類が誕生した時から常にあり続けるテーマで、科学技術がいくら進歩しようともなくなるということはない分野だと思います。

宗教や信仰の核心は霊性(スピリチュアリテ)です。救済や成長、癒し、といった分野は昔も今も変わらず人間の中心テーマです。

しかし客観性や妥当性、再現性に乏しい。

つまり科学的ではないことから、基本的に言ったもん勝ちの世界になり、大きな救いもある判明、副作用として依存やエゴの肥大、妄信、場合によっては殺人にまで発展する争いが生まれてしまいます。

それが人間の歴史でした。

臨床心理学はそのような危険性を排するために、出来るだけ科学性を大切にして、人を支援するという分野で発展してきました。

しかし、先に述べた背景があるためか、スピリチュアルという言葉自体に強いアレルギー反応を示す傾向があるようです。

スピリチュアリティの大切さは認めつつも、実際は科学的妥当性のみを扱うので、スピリチュアル好きな人が臨床心理学の勉強をすると、がっかりするかもしれません。

ちなみに私はそのがっかりした者の一人でした。

私が数年前、公認心理師の勉強をしていて感じたのは、現在の臨床心理学はマインドのパターンを分類し、科学的に用意されていた診断結果を当てはめ、テンプレートにのっとった治療アプローチをあてはめる印象を持ちます。

しかしそれだけであれば、数十年もしないうちに、AIに臨床倫理士や公認心理師の座は地位を奪われてしまうでしょう。

様々な症状や問題をアルゴリズム化したとしても、せいぜいそれは100~200年分の人間の生活様式のデータでしか部類されておらず、

言わずとも人類は、

いや、

生命はそんなに単純で浅はかなものではないというのが私の見解です。

ではヒーラーやチャネラーのようなスピリチュアルリーダーやカリスマの方がそれらよりも優れた診断やコーチング、カウンセリングが出来るかといわれれば、そうではありません。

場合によってはもっと危険な状況もあるでしょう。

スピリチュアルの超古代文明や宇宙人、銀河連合、前世、来世、という分野や概念を研究すると、

その核心は、ノンデュアリティ(非二元)に行き当たります。

最終的には、その探求過程は、発達障害のケアアプローチと相似し、

「私とは何か?」という問いかけから始まり、探求を続ける、という点で全く同じなのです。

そしてその探求過程の中で、副作用として「癒し」が生じます。

それは、以前よりも視野が広がり、苦しみが減り、苦しみと出会っても以前のような未熟な反応をして状況が停滞したり悪化したりせずに速やかにその場から離れることが出来るようになる、と言い変えても良いかもしれません。

それならば、発達障害という概念だけがスピリチュアルと本質的に同じか?といわれればそうではありません。

例えば体調が悪くなり、医師の所に相談に行き、検査を受けると糖尿病の傾向を示唆されたとします。

検査という機会を通し、「自分とは何か?=身体面では糖尿病の傾向がある」ということが知ることができました。

この出来事をきっかけに、

これから食生活を改善し、生活に運動を取り入れ、ストレスが溜まらないような人間関係や仕事を選ぶようになる、

という過程は自分という存在を俯瞰して気づき、自分の望ましくない行動パターンを変容する過程に転換した、という事に繋がります。

最初は医学的な検査がきっかけですが、これは

プチ悟り、プチ覚醒体験です。

このことを抽象化してみると

気づき→自身の変容

というように小さな悟りを得て、より自分と社会にとって心地よい自己を創造するという変容に至ったのです。

このことはスピリチュアルの世界では「瞑想」の効用として知られています。

なので、様々な障害や、病、問題などは、自身を見つめ、より望ましい自分に生まれ変わるきっかけとして作用するある種の「瞑想」として作用していることが分かります。

「スピリチュアル」とは「何らかの見えない恩恵、働き」とも言い表せる

私たちは、138億年前に無という空間から、何故かビッグバンという現象が発生し、何もなかった宇宙空間にひょっこりと地球が誕生し、そこに生命が誕生し、人間が誕生しています。

ここまでの確率を別の表現で言い表すと、

渦を巻くプールに時計の部品をすべて入れると、プールの中で再び偶然にも時計が出来上がるという確率と同じといいます。

これは全くの偶然でしょうか?

旧来までの科学至上主義は、この出来事を単な偶然であると片づけたがります。

しかし、

この現象には、つまり宇宙の生成と私たちの誕生には、「何らかの意思と働き」がある、と考えるのが自然ではないでしょうか?

私たちはすでに、何らかの働きの中で存在しており、その働きの力や理由は、いまだに誰も何も知らないのです。

その極上の奇跡の力を「スピリチュアル」と私は呼んでいます。

発達障害も病も、何らかの問題や困難も、全て20万年しか歴史のないホモサピエンスの限られた認識範囲でしか判断が出来ないので、問題や障害という不快な現象としか判断できないのです。

そのホモサピエンスという限られた小さな枠から外れて、現在の問題や障害を眺めてみると、そこには見えていなかった無限の可能性が広がり、ホモサピエンスではなく、生命としての躍動が見えます。

そうなると、不安や恐怖ではなくただ感謝と希望、愛のエネルギーが常にすでにあることに気が付きます。

病や障害は忌み嫌うものではなくなり、恩寵であったことに気がつきます。

私たちはその巨大で広大な愛の中にいて、その無限の働きの中に常にすでにいた、と気が付くことが「瞑想」の役割です。

それに気が付くためには、

ただ目を閉じて、

こうしている間にも常にテンポよく動いている心臓の鼓動に意識を向けます。

そしてあたかもその心臓が呼吸しているかのように息を吸う時には胸が前に出て、

息を吐く時は胸が引っ込むことに気づきます。

そして、自分という肉体が存在している時から今に至るまで、常に一度も休むことなく動き続けている心臓の「働き」に感謝をしながらしばらくその呼吸を続けてみます。

個人差はありますが、ほっとした安堵の感覚、安心感、落ち着きさ、安らぎ、癒しの感覚が生じるでしょう。

そして、その場から目の前の人生に向き合うことを習慣化すると、人生は全く激変してゆきます。

こうしてホモサピエンスとしての認識ではなく、生命という抽象度まで視点をあげることを、

スピリチュアルでは「瞑想」と呼び、

現代の臨床心理学や認知科学では「マインドフルネス」「メタ認知」と呼びます。

瞑想的な体感と、そして客観的、科学的知識を含んで「メタ認知学習」として

スピリチュアルと発達障害ケアは重なる部分があるのです。


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