プラーナと霊界、宇宙人、高次元存在、神を真面目に考える ―その2―

ヨガナンダの手記をどう考えるか

前回からのつづきの記事になります。

「あるヨギの自叙伝」。本書の手記をどのように解釈すればよいでしょうか!?ちょっと考えると、以下のパターンが思いつきます。

①     ヨガナンダは妄想壁で、でたらめな手記を書いた。ひょっとして統合失調症で幻覚を見ていた。幻覚を手記として描き、弟子や周囲の人々が読めるようにまとめた。
②    空想小説としてこの手記を解釈する。内容的は、ヨガについてや、人が精神的、霊的に成長することの大切さを謳っているので、常識外れの内容や奇跡的な内容は、あまり重要でないこととして無視する。
③    ヨガナンダは詐欺師で、自分の団体の利益が儲かるように、このような手記を書いた。
④    ヨガナンダの主張は、ほとんどすべて正確に自らの経験を主張しており、実際に超人的なヨギも実在する。
⑤これらの4つの複合型があとは考えられます。

私の立場では、①~③までの見識は子どもでも答えられる見識です。誰にでも思いつく見解を述べてもしょうがないという気持ちがあります。
もちろん、選択肢⑤のような状況が世の中では優位なのでしょう。迷信や虚構、虚偽の中に本の少しだけ真実が含まれているというわけです。
そのために、砂金の採掘現場のように砂金とそうでないものを分けて、分析する作業は非常に時間と労力がかかりますが、その価値はとても大きなものがあります。ヨガナンダの話を与太話と真実という砂金とに分けると言うことです。

その役割を懐疑主義者や、科学者が行うのですが、長いあいだ常識と物質主義的な科学視点が、人間に染み付いてしまい、習慣的に私たちはまず①~③までの見識に全てを折りたたんで解釈してしまう風潮があります。

真実さえも①~③に折りたたんでゴミ箱に捨ててしまうのです。つまり物質的観点に、スピリチュアルの経験や真実を無理矢理変換します。

それはそれで、貴重な砂金を全て水に流してしまうような作業のようです。もう人類は砂金をみつけようとただ、土地を耕しているだけの期間が長すぎ、砂金(スピリチュアルな真実)に対する夢を抱くことにも諦めと絶望を抱いている人もいるように思えます。


この例として、2020年にNASAが未確認飛行物体UAPの映像を史上初めて未確認映像である公開しました。UAPやUFOは、今まで自然現象やねつ造、カメラの不具合などと解釈してきたのを初めて「解析不能な物体が高速で空を飛んでいる」と認めたと言うことです。しかし、科学者の中には、その映像を見て、プラズマであると断固主張する名誉教授クラスの方がいらっしゃいました。

その解釈は、NASAの科学者全員よりも日本の懐疑主義者の科学者の主張が正しいという無理のあるものになってしまいます。
その方が不自然な訳です。

つまり認知的不協和から、自分が知っている知識と概念でこじつけてしまうことに、本人自身が気づいていないということです。

実はこれは、スピリチュアルを信奉している人々の方に多く見受けられます。科学者はそのようなバイアスを排するよう訓練を受けているからです。
結果、スピリチュアリストは自らの視野狭窄で自分の分野の信用を傷つけている張本人であることが多々あります。

そういうわけで、私の記事での立場としては、限界はありながらもそのようなバイアスを意識しながら選択肢④、つまりヨガナンダの主張を全面的に肯定し、受け入れ、その上でどのようなメカニズムでそのようなことが起こりうるのかを考察してみたいと思っています。

プラーナの性質からヨガナンダとユクテスワの話を考察してみる

治癒とプラーナ


前回の記事で、物質はエントロピー増大の法則で、時間が経てば経つほどランダムになり、見かけ上のけ現象は拡散し、崩壊に向かう性質があることに触れました。物質的それは素粒子も同様です。

そして、その逆に生命素粒子やプラーナはエントロピーが、時間が経つにつれて縮小する傾向があります。これは何かといえば、エントロピーが増大するとより無秩序の傾向にあるものの、エントロピーが縮小すると、より秩序だった傾向にあるということです。

物質空間はエントロピーが増大し、情報空間はエントロピーが縮小するからです。

生命現象は、肉体という物質の次元と心や魂といった情報的なものがかけ合わさったものです。

物質的な肉体機能が老化や疾病によって損傷し、機能停止をすると死と呼ばれた状態になります。
生きている間は、病になったり、怪我をしても自然治癒力が働き、回復に向かいますが、死を迎えると、もはや治癒も回復はしません。エントロピー増大の法則に従い、肉体は崩壊し、分解し、原子や分子に別れ、自然界に還ります。

生命現象の中核であるプラーナがエントロピーを縮小しようとする。つまりその結果として治癒や回復が行われていたと考えられます。
死を迎えることで、プラーナが抜けてしまうと、その力がなくなるからだと考えられます。

肉体は映画やVRゲームで言うところの、映像のようなものだという話をして来ました。

その肉体が動いて人生を展開させる力は、その主人公がもつ未来に向けてのやる気や意欲という原動力です。その内容は人によって異なり、ある人は出世、ある人は恋、ある人は家族愛、あるひとは世界平和・・・というようなその人の心の中にある情報が肉体をつき動かしています。

その情報を構成している最初単位がプラーナです。
それは肉体が死んでも生き続け、影響を物理世界に及ぼし続けます。

それはよく言われる、「親や恩師の意思を受け継いで家を再建したり、会社を復興させたり」・・・というような形で生きている人々の人生の一部、意味として機能し続けます。

人間の言動を背景で突き動かし、大きな影響力をもつ情報は、キリストや仏陀の存在でしょう。何故なら誰しもが知る世界宗教だからです。
キリストや仏陀の教えは、その最も抽象化され、長く受け続けられてきたものとして考えられます。しかしながら、かなり教義が歪曲化され、戦争にまで何度も発展した経緯がありますが、

それはまだ受け継いだ人間の脳と心の器が、教えをインストールするのに不完全であったことから生じるのかもしれません。

そして、これまでの膨大な研究からひも解き、人間の進化の過程を抽象化すると、ある傾向が見えてきます。
つまりそれは人類の進化の過程を眺めるとある傾向があり、それは「自己中心性の減退」ということです。
そして、もう一つは時空間の超越傾向の増大です。

自己中心性の減退

人類はまだまだ戦争をし、地球環境を破壊しているものの、大枠で言えば殺戮を克服し、差別を失くし、調和と平和をこの地球上に作ろうという意思が育っているのは間違いありません。

まだまだカオス的な様相を世界は呈している部分はあるものの、一方で20世紀は大方の直感に反し、殺戮や戦争が最も少なかった世紀であったと言われています。

こうして、人類の進化の時計の針を何十年、何百年、何万年と進めると、もはや私たちは物質的な資源の奪い合いや肉体を用いたコミュニケーションは不要になってくるでしょう。

争いや自己主張は、自他的に効率が非常に悪いからです。
つまり超未来の世界や、人類よりもはるかに知性を進歩させた生命体は、時間や空間という物理次元での束縛を簡単に脱していることが容易に想像つくからです。

時空間の超越傾向の増大

進化のスピードは、時間が経つにつれて非常に加速してきているという話は聞いたことがあるかと思います。

海にいた生物は陸に上がり、人間を生み出し、人間は心を持ちました。
心とは情報空間のことです。情報空間での認識能力を発達させることで、産業革命、科学革命を起こし、20世紀の初頭の戦争は騎馬戦で戦っいたにもかかわらず、50年も経たないうちに原子爆弾を開発し、その後20年程度で月面にまで行くことができました。

移動手段は自動車、列車、飛行機、スペースシャトルというようにどんどん早くなります。
速度もIT技術の発達と並行して、交通の発達やドローンの開発で、大きく変わっています。

100年ほど後、人間の認識範囲は、情報空間での世界を構築するにまでにいたり、仮想空間にまで脚を踏み入れています。
そして病や障害を克服し、永遠の若さや不老不死が現実的になっています。
IT技術の進化はとどまることを知らず、AIの開発でその加速化は更に早くなると言われています。

この傾向の善悪の解釈はさておき、技術的な進化の傾向は、一言でいうと、時空間の束縛からの解放です。

神になる人類

これまでを考察すると、つまり超未来では、自己中心性が限りなくゼロになり、かつ時空間を超越した生命体が存在するということを示唆しています。

肉体はどうしても生存本能という強烈なモチベーションが存在しますが、時空間を超え、物理次元を超越すると、もはや生存本能という衝動や動機はなくなっているでしょう。

つまり、肉体をもつ生命体の存在目的は、「生存本能」と「子孫(遺伝子)」を残すことでした。しかし、未来のその生命体の存在目的は、時空を完全超越しているならば、死が完全にフィクションであり、子孫(遺伝子)を残すという自我のパターンも卒業しています。

その存在目的は、
ただ「在ること」であり、そのため、喜びや幸せから創造することということになります。

こうして時空を超えた場から、生命体が喜びという創造性を爆発させた現象が、物理現象では138億年前のビグバンであるということが考えられます。

その物理宇宙という遊園地を、最初から遊びつくすために、自らを分割し、物理空間に制限します。制限すると、時空間の法則から「こことあそこ」「私、あなた」という分離が生まれます。

その分離から、進化と成長をしますが、全く同じパターンは飽きてしまうので、次は別の少し違った宇宙を創造する、というリーラ(サンスクリット語、ヴェーダでの「神の戯れ」のこと)の一環であるということが推測できます。

そこまで至る過程では、現在の人類よりも10万年、100万年、数千万年、数億年という水準で進化した存在は、スリユクテスワの言うように、


「ヒラヤニョーカの進化した住人たちは、幽界の長い昼と夜を通じて、ほとんど至福の中に浸りながら、宇宙政治上お複雑な問題の解決や、神を忘れて物質のとりこになっている魂たちの救済につい力している。」

ということを行っていると考えられます。

これらの存在をある特定の能力が発達した人間が近くすると、精霊や天使、神として認識されていたことが推測されます。なにせ彼らは時空間を超越するので、未来も過去も関係ないからです。

そして彼らの本質は救済ですが、その救済は私たちが本質的には彼ら自身であり、もっと言うとちょうえつした 神であるということを分離という幻想のベールを脱ぐことを手伝うことです。

これらのことを考えると、自我からの解法、救済、自己中心性の減少、進化、悟り、幻想からの覚醒、霊的修行・・・などの概念は、同じ現象を違う角度と立ち位置で表現していることがわかると思います。

つづく。

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