見出し画像

スピリチュアルと科学の重なる日常 2

<主従感覚追求思考>

今回は私自身のことと、母親のことを交えながら「主従感覚追求思考」についてお話したいともいます。

「主従感覚追求思考」とは僕が命名した新しい造語になります(世間では、調べている範囲では見かけなかったのですが、他に類する言語が在あれば申し訳ありません)。

「主従感覚追求思考」の構成要素となる単語をグーグルで検索すると、

「主従」: 1.主であるものと従であるもの。                2.主君と家来。主人と従者。 

「感覚」:1.目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、脳の中枢に達して起こる意識の現象。「―器官」。感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方。「―的」
2.物事のとらえ方・感じ方。

「追求」とは:《名・ス他》それを得ようとどこまでも追い詰めること。

「思考」とは:1.考えること。考え。
2.まわりの事態に応じて課題を解決して行く過程。

という事です。ざっとこれらの用語から推測できると思いますが、どんな時に「主従感覚追求思考」が生じるか、考えてみると、

例えば地震や災害、病や障害、また何らかのトラブル、問題が発生した時には人間は何らかのマニュアルがあると安心します。

地震や家事などが発生すると、とりあえず避難経路を確認し、火の元を消し、机の下に隠れる。普段は非常食や避難経路、貴重品、医療品などを完備しておくこと、という準備が大切になります。

病や怪我がある場合は、熱を測ったり、病院に行って診断をもらったり、怪我ならどのような対処が適切かという、これまで過去に経験し、知っていた情報をもとに、マニュアルに従うということです。

何も危機的な状況にこのような感覚が発生するというわけではありません。スマホの操作が分からない、使っている電子機器が壊れたといった状況ならば、取扱説明書を見たり、詳しい人に助言を求めたりと、問題解決に活路を見出す情報を求め、情報の指示に従って行動を行う時の感覚です。

そのため、「主従感覚追求思考」が生じやすい時は、日常生活で言えば何かわからないことが発生したり、困ったことがあったときに、とりあえず

1、情報を収集する 2,得た情報の指示に正確に従う

という過程から成ります。そして感情的な感覚としては①不安や恐怖→②安心、従属感

といった不快な状態から快適な状態に移っていくことが分かるかともいます。

この①→②という過程は人間、動物、生命現象では生存欲求から本能的に求める当たり前の行動様式であり、①→②という過程を邪魔するものがあれば、それを排除したり無視したりする現象が起こります。

こうして人間は主従感覚追求思考から様々な手段を形成し、人口を増やし、文明を発達させ今日まで至りました。

主となる者は、従となる者が自身の意思や受け継がれた教え・教義(マニュアル)に従っていると安心や快感などの感情と脳内ホルモンが生まれます。

従、となる者は主となるものの意見や、過去から受け継がれた教えと教義(マニュアル)を察知し、追求することにやりがいと安心感、快感という感覚が生じます。

こうして主と従はお互い相互に補完する関係性を維持しています。これが兄弟、親子、上司と部下、年功序列、先輩後輩、組織システムを強固に維持します。

この感覚の特徴は、不安や恐怖などの状況下において特に強く発揮します。

これは良いか悪いかではなくて、こうした感覚が人間を守ってきたのです。例えば巨大地震が生じた場合ではこの「主従感覚追求思考」が強く発生していた方が、生存確率が上がります。生理学的には、脳内の偏桃体という部位と関連があると思われます。

しかし、平和で安穏としたときは、主従関係を優先するよりは、新たなイノベーションに繋がる発想や、物事を俯瞰し、多角的に観る視点がより進化と成長を促します。創造性はこのような状態の時に発揮され、それは脳の前頭前野による抽象思考が活動している時です。

人類の歴史

ホモサピエンスは20万年前に地球上に誕生しました。20世紀には大きな大戦を2度も繰り返し、核兵器を使用し、多くの差別、虐殺、戦争を繰り返してきました。しかし、直観的思考と反し20世紀が人類史上、最も殺人で亡くなった人間は少なかった世紀だといわれています。

つまりホモサピエンスは災害、病、障害といった死因で亡くなることが最も多かったわけではなく、つい最近まで「暴力による殺人」による死亡率が圧倒的に多かったそうです。

こうした歴史を鑑み計算してみると、人類の歴史の常に99.9995%以上は戦うか、逃げるかという危機的状況からいかに生き延びるかを模索していた種であったという事です。

このことが何を示すかといえば、私たちの受け継がれるあらゆる文化、宗教には主従感覚追求思考が付きまとっているということです。

主従感覚追求思考が反芻され強化されすぎると、虐待やDV、パワハラの背景になるといえます。

私たちは、日常の生活の中でいかにこの主従感覚追求思考が発生しているかを観察してみることは、私たち個人個人、ひいてはその個人の総体である人類が進化する最初のステップとしてとても大切なことのように思います。

主従感覚追求思考がネガティブに言語化されると「しょうがない」「~すべきだ」「~しなければならない」「恩義に報いねば」といったマスト的な思考と萎縮したような感覚、あきらめ感といった感覚も生じるかもしれません。

ポジティブに言語化されると、やりがい、達成、貢献、奉公などといった感覚も生じるかもしれません。

いずれにしてもバランスが大切です。

宗教・スピリチュアルと主従感覚追求思考

主従感覚追求思考は、危機的な状況で生じやすいということは、別の視点で考えると生命や死生観といったテーマに関すると生じやすい思考といえます。

生存とは生き抜くこと、救済されること。感情で言えば不安と恐怖から安堵への移行を示すからです。

つまりは宗教とスピリチュアル、というテーマは主従感覚追求思考は大好物なわけです。

教祖やカリスマ的な人物、また過去の聖人や精霊、天使、宇宙人といった対象があると、その対象の発するメッセージや教義を追求することで安心感、安堵感、やりがい、生きがいが強烈に発生します。

セロトニン、アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィンなどがその時々に生成し、正に「生きている!」という感覚を発生させてくれます。

脳は連想するだけでも、関連するホルモンを生成しますから、そのようなお守りや仏像、銅像に対しても主従感覚追求思考が発生し、ともなう快感ホルモンを生じます。

これが宗教やスピリチュアルが永遠に無くならない人間の理由の一つです。

こうした記事を書くと僕が、スピリチュアルな存在―精霊、神、天使、宇宙人などーに関して否定的に捉えているように感じるかもしれませんがそうではありません。

個人的には一般的に言われているスピリチュアルや宗教とは異なるより高次元のからくりとして、これらの高次元の存在達は存在し、役割を発揮していると考えています。それについては今後書いていきたいと思います。

主従感覚追求思考と母と私

私の母は、宗教やスピリチュアルが大好きでした。40年ほど前は今ほど「スピリチュアル」という言葉が流行っていなかったし、認知も今ほど多かったわけではありませんでした。

そのため、母は数多くの新興宗教に入信しては辞め、また新しい宗教に入信しては…ということを繰り返していました。

今にして思えば、母は愛着障害であり、強烈なまでに宗教の中心人物に依存しては問題を起こし、その団体とトラブルを起こし、激怒しやめる。しかし依存心からまた他の宗教を見つけてはドはまりしていくということを繰り返していたように思います。

おかげさまで西洋から東洋までいろんな主教の聖者や神々といった存在達を知ることが出来ました。

小学校2,3年生の時は、密教系の寺に何度も母と通い、坊主頭して般若心経を暗唱し、滝行を繰り返していました。

自然あふれる中にあった山寺で、滝と川で遊んだり、時には魚釣りをしたりして、今にして思えば贅沢な時間だったように思えます。

寺の住職が護摩焚きをし、多くの信者さんたちと読経を唱えていたので、特に般若心経と線香の匂いを嗅ぐと懐かしく、安心した感覚が今もします。

キリスト教系の教会では、ステンドグラスが美しく光を通しているイメージが思い出されます。

救済という概念で宗教を括ることが出来ますが、救済される安堵感と期待感は絵も知れぬ恍惚感に繋がることもあります。

様々な宗教の教えに触れてゆくと、それぞれの教えの違い、矛盾点に気が付いてゆきます。

そうして子どもながらに素朴な疑問も沢山芽生え始めました。例えば仏陀は生きとし生けるものの命の価値を説き、殺生を禁じているという宗教がありました。

しかし、その宗教の教えでは生前に悪行を行うと死後に地獄に落とされ、地獄で鬼に火あぶりにされたり、舌を抜かれたり、針の山を登らせられたりするのです。そうしたおどろおどろしい映画や絵本などを見せられたりしていました。

子どもの時に疑問に思った私は、母や大人の信者さんたちに、仏陀は殺生や他者の苦しみとなるような行為は禁じていたにも関わらず、映画や絵本で出てきている鬼は、そういった人間を極限まで苦しめている、また、針の山や人間の舌を抜く工具などは地獄社会の金具店で作られているのだろうが、そういった金具店は摘発されないのか?といった質問を投げかけ、嫌な顔をされた覚えがあります。

大人たちからは「それはそういうものだから…」という子どもの私にとっては理解不能な反応しか返ってきませんでした。

母も私の質問に冷静に答えるわけでもなく、朝晩の読経を強制してばかりいました。

母は今にして思えば、常に死後の世界に関心を持ち、死という概念が強烈に恐ろしかったのではないかと思います。また、自分の両親に満たされなかった愛情を宗教に求めていたようです。

母の主従感覚追求思考は、何度も反芻され強固になり、子どもや父、親戚や友人にも強烈に強要してゆくことになってゆきます。

主従感覚追求思考のモチベーションは、生物ならでは強烈に感じる死という現象への嫌悪と恐怖からの救済という、性質があります。

前述したように主従感覚追求思考は、電化製品の取り扱い説明書を探して利用するとか、危機災害時には必要不可欠な機能です。

が、そのモチベーションの程度は、一人一人の心理状況によって異なり、その強弱もあいまいです。

多くの人々がカルト宗教の信者に違和感を持つのが、彼らの持っているその不安と恐怖感から救済されようとする姿に違和感と不快感を感じてしまうという事。

また、その思考に同調させようと強制させる予感を彼らに感じるので、嫌煙されます。結果、カルト信者は社会から浮いてしまう現象が生まれます。

浮いてしまった彼らは、ある種の選民意識も強化され、ますます奇妙な連帯意識が強固になるという循環が発生してしまいます。

しかしその連帯の思考形式は主従感覚追求思考から成る者なので、決して心地よいものではありません。常に努力や義務が付きまとい、救済が目的ということは、現状否定なわけで、常に罪悪感が付きまといます。

ありのままの自分でいることに罪悪を感じ、苦しいのです。そしてその苦しみと痛みと主従感覚追求思考によるやりがいいとと、快感、安心感で埋め合わせします。

結局、救済は永遠に来ないのです。

日常生活における主従感覚追求思考のデメリット。そしてアセンション

現代は誰もが感じる変化の時代です。

その変化の内容とは、社会は求心型システムから遠心型スステムに移行している、というものです。

求心型システムとは、昭和時代に特に強く機能していた、終身雇用制度に守られる大企業就職。有名大学や家系、能力のある経営者や大企業といった一つの大きな価値に向かって多くの人々が集まり社会を形成する形です。

姿としてピラミッド型の社会構成が創られます。個々人の思考形式として、主従感覚追求思考は威力を発揮していたわけです。

そのモチベーションはサバイバー、つまり「生存」ということが最も大きな関心事でした。脳内は偏桃体優位の不安と恐怖からの救済が、最も大きなテーマです。

遠心型とは、個人が中心になり、個人それぞれがその都度、社会に価値を提供するために能力を発揮するというもので、ピラミッド型ではなく分散・協調的な性質を持ち合わせていると考えます。

今後の社会はピラミッド型の企業や在り方も残りながらも、個人の能力を発揮し、繋がってゆく社会に転換していくという分析が多くの所で見受けられています。

その際にには前頭前野、もしくはそれ以上の脳(後記載の心臓脳の活用)の活用です。

そのモチベーションは創造性であり、貢献、喜びの表現といったことが大きなテーマになるものです。

巷のスピリチュアルではアセンションと呼んだりもしている現象ですが、社会学、心理学的にも人類の進化上特に特異な時期であることは間違いないようです。

コロナの時代

こうした背景がある中、2020年にコロナウィルスが全世界規模で、人類の最大の関心事になりました。

コロナに関しては、ウィルスの毒性、致死率、死者数、ワクチンに関して、大手メディアやSNSで流れる情報では180度意見が対立し、何が本当かわからない時代に突入しました。

何が本当かわからない=何に主従したらよいかわからない

ということは、より強固に不安と恐怖が発生し、主従感覚追求思考がより発揮している現象が生まれます。

こうした状況下では、人々は抽象的な思考がし辛くなり、ますますサバイバル本能から情報を追求しようとする行動、そして、自分と違う考えや価値観を攻撃しようとする傾向が生まれます。

マクロ的には、アメリカの大統領選挙、コロナウィルスの脅威の是非、政府のコロナ対策への賛否両論論争、ワクチンに対する意見の相違・・・

身近なところでは家族観や職場での考え方、生き方の価値の相違による摩擦が生まれやすくなります。

個人的には、こうしたリスクへの対処や問題提起がなさすぎることが最も大きな問題のように感じています。

そうではなく、今回の件を主従感覚追求思考から脱却し、創造性を働かせるきっかけが一人一人に与えられるチャンスが増えている、とも読み取れます。

それにはまず、「思考」「価値観」といった言葉で表現できる水準での問題解決はおよそ不可能でしょう。

言葉とは概念であり、虚構でもあり、実態ではないからです。

今後の記事にも反映してゆきたいと思いますが、今こそ言葉を超えた場からのアプローチが必要であると、僕は感じています。

それは「感じる」「感覚」といった「意識」に関する領域だと思っています。

様々な価値観と考えを俯瞰して、抽象化すると、ノンデュアリティ(非二元)という場に到達します。

この場は生命の源の場であり、個々からすべてが生じ、全てが還ります。

ここまで読み進んでくださった方、どうもありがとうございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?