松山大空襲とわすれられない辞典

「薬を取ってくれッ。枕元に忘れてきとるけん…」ドンごロスで出来た編上靴を履き、仕立て直しの学生服に身を包み、ゲートルを巻いた当時中学生の私の姿を、空襲の最中とは言え多少なりとも頼もしく感じたのか病身の父からのいいつけである。
 「ハイ‼︎」
 戦闘帽の上から防空頭巾を被り、頚の後ろから伸ばしている紐を顎の下にまわし、キリッと締め、爆音と阿鼻叫喚のなかに不気味な音を立てて落ちてくる焼夷弾を気にしながら、それまで避難していた水田の中から道路に這い上がり、我が家に向かって一目散に走った。
 
 避難していた水田は、戦後四十二年も経過した現在の街並みからは想像もつかないが、出渕町二丁目(現三番町七丁目)を西に下がり、伊予鉄高浜線の踏切を渡ったすぐ道路端にあった。

 そのあたりから西は、ところどころに民家は点在していたがほとんどがすい田や蓮根畑であり、大きな建物といえば新玉小学校と、二、三の工場や、製材所の材木置場くらいで、当時を偲ぶものといえば、大正十年に健立された踏み切り沿いの小さな地蔵尊だけである。
 
踏み切りから東は、公会堂と呼ばれ子供達の遊び場となっていた広い空き地や草むらが見られる静かな通りであった。
 そんなところにあった水田から家までは、わずかに二町ほどしかない。
 しかし私の進む方向からは、誰一人として逃れてくる人影もなく、無人の町と化していた。 

 古町方面から、大手町あたりにかけてはすでに大きな火の手が上がっていたが、大手町の電車通りから南にかけての萱町二丁目、袋町、出渕町、中の町からは、それらしい、火の手も見えず、大丈夫?の様子だった。
(今なら家まで帰れるなッ)
急いで出渕町と萱町二丁目(現三番町七丁目)の四つ角を走り抜けた直後である。

 「ドォン」背後で大きな炸裂音がしたかと思うと、一瞬にしてオレンジ色といううか独特の炎が当たり一面に燃え上がった。
 続いて同じような炸裂と火焰を上げながら、町の通りを西から東に向かって焼夷弾が降り注いだ。
 
赤子のようにまったく無抵抗の寂然とした城下町に対するとどめの刃といえる火箭そのものである。
 
 "ダメだッ‼︎このまま家に帰ったら危ない‼︎
 子供心にも、動物的本能が身の危険を感じさせた。
四つ角の高橋の小道具屋、近藤のたばこ屋、徳丸の味噌屋、洗張屋、それぞれ四軒の表
戸柱、軒先や角の電柱には、ゼリー状となって飛び散った油脂が付着し、付着したところは、巨大なヒドラが侵食するように、奥へ奥へと食い込んで行く独特の焼け方には、ある種の戦慄を覚えた。
 
(まごまごあしよったら危ないッ)
小道具屋の東隣りにあった「安心屋」という宿屋に飛び込み、「火事ぞッ‼︎火事ぞッ‼︎」
と、叫びはしたものの誰一人として残っていない。調理場にあったバケツを手にして表に飛び出した。
 
焼夷弾は四つ辻の中央に落ちたのか、道路の焰は特にひどい。
 一瞬戸惑いはしたものの、父母の避難しているところまで逃げ帰るにはどうしても火を消さなくてはならない。
 たばこ屋の店先に、隣組で造っていた一際大きな防火用水槽があったので、その水を頭から被り、続いて道路の火焰めがけて二度三度と水をかける。
 
 消えない焰にバケツ一つで挑戦し、ようやくにして逃げ道だけをつくり、父母ところまで必死に引き返した。
 「お父さん、もう家には帰れんよッ。近藤のたばこ屋のところに焼夷弾が落ちたけん、それをけしてもんて来たんよッ。町には誰もおらんかった」
と、状況を話した。
「そうか、(町中がやかれてしもて)もういかんねや…怪我しやせんかったか」
と、気遣いながら気丈にも眼だけは光らせていたが、衰弱した体は、母に凭れ掛かり、母の手で支えられていた。
 
親子四人で持ち出したものは布団二枚と毛布一枚だけ。私のものは、警戒警報あがなると学校の教科書等を鞄につめるよう習慣づいていたため、それらを入れた鞄と三角巾の入った救急袋だけである。小学生であった弟の教科書は持ち出すことができず、弟は"本がない"と泣きじゃくっていた。
             つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?