ふるさと下町風物語

 小学校ニ、三年のことのように記憶しております。
 私が育った町内は駄菓子屋、たばこ屋、酒屋さん。それにうどん屋、帽子屋、硝子屋さん。そうそう、炭谷に米屋に小道具屋さんも、多くの店屋が、軒を連ねている戦前の静かな城下町でありました。
エッ、町名?
終戦後に区画整理か何かでなくなってしまいましたが、松山市出渕町二丁目、現在の三番町七丁目であります。
 
出渕町には江戸時代に同心が居住していたので、同心町と呼ばれていましたが、のちに出渕町と改められました。
 
明治十一年には松山市東警察署の前身、松山警察署が設置され、その東側には知事公舎、少し下がれば尋常高等小学校ありといった、行政、文化の中心地で、昭和ニ十年七月の松山大空襲までの十四年間、私が多感な少年期を過ごした''ふるさと,であります。
 
そのような街並みにも、庶民の日常生活に調和した、いろいろな食習慣の職人さんたちが、訪れ、学校帰りの悪童達はその仕事よぶりを見ては、すべての仕草に驚き、ずいぶんと道草をして、楽しんだものでございます。
 
それに、ふしぎに思ったのは、この職人さん達が仕事をするのにでき次第場所というのがあるのか、どの職人さんも殆どおなじまちかどに足を留めていたのを覚えております。
 その場所は、家から少し下がった街角の、坂やさんうどん屋の間にある、狭い路上の入り口でありました。
 
一番印象に残っているのは羅宇屋さん。腰高の手押し車に銅づくりの湯沸かし器をとりつけ、湧き上がった蒸気を利用し、甲高い汽笛を鳴らしてながら町ないに入ってきます。
 車を停め、汽笛を鳴らし、その存在を示すように一刻の間、客を待っているようでした。
 
お客まかせて停まっていると、そのうちに汽笛を聞きつけた町内の人が、つぎつぎと煙管を持ち込んでくるのです。
 
そうして羅宇屋の仕事が始まります。まず煙管の吸い口を、上記吹き出し口からに押しつけ、一気に蒸気をとおし、羅宇の中の脂に雁首川に流し出し、きずき半紙の紙縒を煙管にとおして水気を取り仕上げるをします。
 
最後は、煙管の吸い口に唇を当て、小さく鋭く、瞬間的に息を吹き出し、舌の先を使って
「スポン」という音を出して確認してし、完了となります。
 
ときには、傷んだ雁首、吸い口や、羅宇そのものを取り替える等の仕事もありました。
いくとおりものサイズに合わせた丸い穴を開け、それを首枷のように二つに割った型板を使い、雁首や羅宇を取り替える等の立ち仕事をしている職人がさんは、過ごした小意気な胸当てをしていたように覚えております。
 次は、「鋳掛けッ 鋳掛けッ鋳掛けものはないですかぁ」の呼び声を、町内格戸にかけてまわり、道端に三尺角くらいの茣蓙を敷いて座り込む鋳掛け屋さん。
 
小さな鞴(ふいご)で火を起こし、おばさんたちの注文を待っていました。やがて、鍋や釜を手にしたおばさんたちがやってきます。
修理に出される鍋や釜を、バケツ等は、昨今の消費時代では捨てられる運命的にあるような品物ばかりでした。
 
琺瑯引の洗面器は、半田付けができないため、綿を細く縒ったものを、傷んだカ所にとおし、両面に出た綿の先端を鋏で切り取り、残った綿のところに松脂をすり込み、炭火で温める手際のよさ。
 
まったくの応急処置というしかありませんでしたが、当時はそれだけで、十分間に合っていたものでした。
鍋や釜の小さな穴に対しては、小さな鋲でかしめてしまい、大きな穴のところには当て金を使い、その周辺を花弁状に切り込み、それを互いに組み込ませ、割り箸につけた硫酸か何かを塗り、炭火で熱せられた大型の鏝(こて)を使って器用に半田付けをします。
 
その独特の音と匂いは、子ども心の科学心を喚起させるにはじゅうぶんなものでした。

 自転車に、目立て道具を入れた木箱を積み、やってくる目立てやさん。この目立て屋さんだけは、スリ込みの音が苦手で、「歯が浮いてしまう」と子どもたちからは敬遠され、立ち寄りはしませんでした。
 
次には手回し式の小さなグラインダと、数個の砥石だけを持って、包丁、鋏、てい刃等の刃物をとぐ、研ぎ屋さんの仕事は、羅宇屋、鋳掛け屋さんのように、仕事の見せ場というか、子供たちの目を引きつけるようなインパクトがなく、黙々と刃物に向かって研ぎの仕事が続き、最後に自分の向こう脛の毛をけずって、仕上がり具合を確認してするのが、その職人さんの見せどころあでありました。

 そのような研ぎの仕事を見ている悪童たちも、やがて五年生ともなると、それぞれ 肥後神を持っていました。
人気のないところでそれをとりだし、どこで手に入れたのか、小さく割られた砥石に刃先を当て、恐々と研いでいたものでした。
うぶ毛のような脛毛をそいでは、その切れ味に失望したりしながらも、研ぐ という技術的にを目から学んだりしたものでした。
 
継ぎの当たったズボンをはき、そのこしに棒切れを差し、片ちびした下駄でちゃんばらあをし、別のグループの空缶もついでにけりとばしあ、たまに喧嘩もしたりさわいだり、昭和一桁世代の少年期にすごした下町の風物を思うと、その情景が脳裏に残されているだけに、一抹の淋しさを感じるのでございます。

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