蛇の目傘.番傘パート2

 梅雨ともなると、学校の往き帰りは勿論のこと、お得意先への使い走りにも○の中に一を引いた印の番傘がついてまわる。
 数本あった番傘はどれを開いてみても太い竹で作られた頑丈なもので、親骨、小骨どの部分も無骨なものである。
 「バリバリッ」という音とともに開けた番傘の渋の匂い、ひとまわり雨の中を差して歩くと、それをたたんでも直径が十ニ、三センチにもなる野暮ったい番傘。今にして思えば小学校の低学年ごろよくさしたものと思う。
 
 雨上がりの学校からの帰り道は「タンク(戦車)」と言って一杯に開けられた傘の柄を横にし、自分の腹部あたりで両の手を支えに持ち"ゴロゴロゴロ"と道路の上を転がす。

 竹の柔らかさを通しているためか、"ゴトゴト"と、手に響いてくる感触は子供にとっては、ずいぶん楽しいものであった。
 
ガキ友達と競争ともなると夢中になり、鼻緒の切れた下駄を腕に通し番傘をひこずる。
挙げ句の果ては骨を折り、紙は破れ、家にたどり着くころは意気消沈、といったことが、しばしば繰り返された。
 
 番傘のほうはまだそれでよいにしても、手伝い方々お得意先へのお使いには、茄子紺の落ち着いた色調の蛇目を持ち出し、少しばかり兄さんになったような気持ちと、○一の屋号から解放された嬉しさからついついハメをはずし、傘をいためた時は
父親の拳骨を十分に覚悟したものだ。
 
それでもやはり渋一色の番傘よりも、蛇目の傘が本当によかった…
「いつまで見送っているんですか…」
家内の声に、ハッーと気がつき、「よかったのお……」と、照れ隠しに声をのこし、再び坂を登った。 

 訪れた友人O氏の家は、幸いにも戦災を免れたために、構えは戦前のもので、北に面した軒先の低い家である。
案内されるままに上に上がる。
 
戸口の土間から四畳半くらいの店の間を通り、その奥にスダレ一枚で隔たれた8帖の奥の間、それに続いた板の間の茶の間、その隅には梯子段がかかっている。
 
 
南隣りの屋根と、こちらの軒先とのわずかばかりの間から射し込むあかりを葦簀(よしず)でやわらげ、胡麻塩頭の父親らしき人が手仕事をしていたが、私達の訪問に一度は手を休め、ていねいな挨拶をしたまま再び仕事にかかっていた。
 
 壁には、五、六丁の三味線がかけられ修理をまっている。
「うちの親爺は何も知らん職人じゃけんこらえてなッ」
私達に悪い印象を与えまいと、年若い彼は意を配っている。
 
当の親爺さんは、「何を言よるんぞ、入院中に世話になったお礼を、ように言うとかんかッ!」と、背中越しにたしなめる。
 
彼と知り合ったのは、数年前、日赤に入院中、ともに絵が趣味であることから意気投合し、互いに動けぬ体を悔やみながらも病床の上でスケッチブックに鉛筆をはしらせあった時からである。
 体調の回復とともに私は個室から彼と同じ大部屋に移り、その後はお互いの境遇、家族構成等を話し合い、時々見舞いに訪れる中学生の弟さんとも冗談がいえる仲となり、しだいに親密になっていた。
 
 そのためか、初対面であるご両親とも、古くからの知人のように思われ、特に母親は私達に気を使い、台所の板の間を上がりおりの繰り返しで、冷たいものや、手作りのご馳走を用意し一家をあげてもてなしを受けた。
 
新しい友人や、家族同志が往き来し始めた当初は、ほとんどの人達は、お互いにアルバムによる兄弟、家族の紹介をし合うものだが、彼も古いアルバムを取り出し、果物をすすめた。
 
幼少の時の彼の写真とか、湯神社等の写真であればともかく、名前もわからず、顔も知らない人達の写真を見るほど味気ないものはなく、失礼にならないように気を遣いながらも単調なしぐさでアルバムをめくっていた。
 
 しばらくしてある一枚の写真が目に止まった。その写真は、私の亡父がまだ、青年期に雅楽か何かを習っていた当時のもので、戦災に罹るまで我が家のアルバムに貼られていたものと同じ写真であった。
 
大きな床を背にした着物姿をの男女二十人余りが、威儀を正しているが、セピア調にへんしょくした画面から時の推移が偲ばれる。
 
「アラッ!この写真は…」
私は懐かしさのあまり声を出し、他人とはみまちがってないかと、つぶさにその写真を見たが、まぎれもなく父が映った写真である。
 
それまで黙々と、精巧をきわめた組手の修理をしていたOの親父さんが、

「わしが言ったとおりじゃろが…」
と、口を差し入れ、息子の顔と私を交互に見ながら、悦に入ったという顔つきで言葉をすすめ
 「ここにおるのが私でな…お互い若かったもんよ、ちょうどいんまの息子か、お宅くらいの年じゃっとろかぁ…」
と、私に話かける。「そうですかぁ?」返事をしたものの「……言ったとおりじゃろが」との言葉の意味がわからず、何のことかと尋ねてみた。O氏は、
 「退院後、貴方とのことを色々話していると、親爺の言うのには、"その人は昔から出渕町に住んどった紋屋さんじゃないか?と、けんとさく言うもんじゃけん、松山には、同姓の人はなんぼでもおるんじゃけん、そんなこと言うてもわかったりするもんかやと言うのに、親爺は、しゃっちに"いんや出渕町の人に違いない"と言い出したら、きかんけんほっとったんよッ。
 
それにしても親爺はええ勘しとったんじゃよ」説明の間、親爺さんは、ニコニコと老顔をほころばせ"伊達に年はとらんワイ" 松山のことならよう知っとろが"と言わんばかりの所作をしめしながら、息子の話のくぎりくぎりでうなづき、自分の存在感をたしかめ、楽しんでいる様子がみられた。
 
 私も、その笑顔と雰囲気にひきこまれ、一面識もなかった全くの他人同士が、親子二代にわたり、それぞれ深い親交を持っていた不思議な巡り合わせと言うものに強い感激を受け、親御さんのご健勝を祈念しつつ、その夕刻O氏宅を辞した。
 セピア調に変色した一枚の写真と、一本の傘を借りたまま……
昭和六十年十月号   かがりびにて
            おわり

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