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しるべ石考

 道が人の踏みしめる地面から、車輪の転がるかアスファルトの帯になって久しい。
 トラックやマイカーが疾駆し、人は隅の方を小さくなって移動する。………だがこんな道路を離れ廃道寸前の「みち」が残っていた。
 このような見出しで、四国のみち(香川編)がつい先日(六月五日)から愛媛新聞に連載されはじめた。(この話は平成三年の話のことである)
この記事を目にしたとき、ライターが「みち」というものにのめりこむには、それなりの理由があったであろうし、素材に向かって深く探れば、郷土人の自然の中での生活文化、信仰の深さが謙虚に理解もでき、現在の時点で、「みち」を知ることによって求めようとしている何かが見えてくるのかもしれないと、ライターの心情を垣間見る思いがした。
 
 仕事がら、自由に動きがとれない身でありながら、私が「しるべ石」(立石)に興味を抱きはじめたのは、田園風景に囲まれ、静けさだけが取り柄の現在の地に居を構えて間もない昭和五十三年ころのことであった。
 
近くの「みち」を散策しているうちに、県道八倉松前線と、県道松山伊予線が交差する三叉路 北伊予駅南踏切にある酒店の角に残されている「しるべ石」の文字が目に入った。
 
 そのしるべ石は、それまでに何回となく自動車の中から見かけていたが、わざに車を停めてみるには何がしの煩わしさがあり、気にしながらも素通りを続けていたが、その日は歩いていたため「しるべ石」を改めて見直した。
 
正面に、左谷上山并郡中道
左側面に、右松山市街并道後道
右側面には、松前子聖道
 
と、あり裏面は判読で明治十五年◯月と建立した年月日と寄進者名が刻まれている。
 
力強い運筆をそのままに刻み彫られた谷上山并郡中道は、県道松山伊予線にあたり、松山市土橋町から古川 中川原 出作 神崎をへて、伊予市上野で県道伊予川内線に結ばれ郡中に至る道路であり、松山市街并道後道は、古来旧北伊予地区 旧南伊予地区各中心部から、城下町松山に通ずる幹線道路で、終戦直後まで農家が米を牛車に積んで行く道であり、城下町へ買い物にでかける道でもあり、松山に通学する中学生や女学生の通学路でもあった。 

 これに対し「松前子聖道」の意味が理解できない。
尋ねるすべもないままに在の古老に教えを乞うと
「松前の西小泉にある長徳寺へ行く道標であるとの話であった。その道は「へんろ道」や「こんぴら道」でもなく県道八倉松前線と呼ばれており、その昔砥部焼きが松前港まで積み出された道であり、松前のオタタの行商の道でもあったが、「子聖道」の意味が理解できない。
 
なぜ長徳寺への道しるべがどうしてここに建てられているのか?
最初は単純な疑問であったものが時が、たつにつれてしだいに興じてしまい、町誌等をひもどくというハメになってしまった。……

長徳寺は、松前町西小泉八十ニ番地に所在する浄土宗 鎮西派京都知恩院の直末寺(本尊は阿弥陀如来)であることが判明し、また境内には権現堂があり、烏帽子袈裟姿の子聖大権現がまつられている。
 
この権現は三国(印度、中国、日本)伝来の古代インドの大黒天で元禄年間に長徳寺第四世、吟龍和尚が播磨の国(兵庫県)から勧請して依頼衆住民に尊崇され、また、一般伝説によると紀州の一長者の一子(子の年、子の日、子の刻生まれ)が下の病におかされたが、一夜霊夢に大黒天を拝し、長徳寺に参篭祈念したところ「子の日、子の刻」になり、全治するに至ったので、大黒天を「子聖権現」と尊称したと語り伝えられ以来霊験があるとして遠路来り信仰するものが多く、各地に「子聖道」の道標が立つに至ったとの説である。
 これは同寺が文禄三年(1594)開基、以降数回の増改築をえて現在に至っている歴史と寺伝が物語るように明治十五年建立の「しるべ石」が百十年余りの風雪に耐え、行き交う人々を眺め立ち続けている姿をみると、「子聖道」が、開けていった様子がうかがえた。
 
その後は近くの「みち」の辻々を注意しながら尋ね探ししてみたが、最初に知り得た一基以外に見ることもなく、かえってその一基の「しるべ石」があったことによってその後の探究心が燃え立っていった。
 
このような出合いに始まった「しるべ石」に霊性を感じ、人が歩いた足音を偲び、ひなびた「みち」に目を移し、旧街道を松前町 伊予市 中山町 砥部町 久万山道 広田村上浮穴郡小田郷の「みち」に足をすすめるうち、いつしか東予市 西条市にまで及び、長年の歳月と自然の力によって熟成された不思議な色合いをもって浮かび上がっている「しるべ石」のよさも十分にわからぬまま、余韻をみつけての記録と撮影は、いつしか十年の歳月がたってしまった。
 
 今はただ、焦ることなく、忘れかけた「みち」を尋ね、杖と笠と草鞋で幾山河を越えて巡った旅人や、周囲の景色に浸る間もない難行を重ね、見知らぬ土地の霊性を信仰の場として追拝した遍路者達のまなざしに映る「しるべ石」に思いを馳る。 
 
物の書に「歩かない日は淋しい」と書かれていた事を思い浮かべ遠い昔、四季のうつろいのなかで郷土人が歩いた
「ふるさとのみち」をさらにあしをすすめ「しるべ石」の文化と歴史の源流を訪ねたいと願っている。
   建築設備だより平成三年七月会報23

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