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モノを書くとは、人間に最後に残されるモノだ。

モノを書くとは、人間に最後に残される仕事の一つだと書いていたのは、きっと村上龍だったと思う。彼は他の仕事がどれだけ尊いのかについて書き記したかにも関わらず、小説家という仕事について「他の全ての夢が破れた時に目指せばよい、犯罪歴も、借金も、関係なしに書けるのだから」というようなことを言っていたと記憶している。子供向けの仕事について考える本「13歳のハローワーク」と言う本だったことは覚えている。悲しいかな、私はいくつもの夢に破れてここに居る。何かを書き記すことしか私の手元には残っていないらしい。その意味では、当時「それはあんたが一流の物書きだからだ」と一蹴した上記の言葉たちも、あながち間違っていなかったらしい。現に、私はこうして文字を書き記している。

生きるべきかを考えるにも、生きている必要がある。

先日、とある手続きのミスで、私は収入を失った。大切な生活資金だ。その後すぐに再手続をしたのだが、どうやらそれも上手く手続きが進んでいないそうなので、昨日、今日、明日にでもまた電話をしなくてはならないのに、こうやってnoteを書いている。はっきり言って狂気だ。これでは生きていけないではないか。というか、こういった事務方とのやり取りがしっかりと行えない生きづらさから、私は手続きをしなくてはならないのにそれが出来ない。その生きづらさの理解など、当の昔に諦めた。明日、担当者に電話することもないだろう。電話するつもりで眠り、電話をするつもりで起き、そしてなぜか、電話をすることなく夕方の五時を過ぎる。そして、明日こそは、と思いきっと明日も眠るのだろう。そして目覚めてから気が付く。今日は土曜日だ。きっと思うのだろう、生きていけない、と。そこまで分かったうえで、「何かを書きたいから」という気持ちだけでこのnoteを書いている。

しかしそれでも日は昇る。

さて、何もすることがない無職の貧乏人は何をして時を過ごすのだろう。私も知らなかったのだが、何もできないほどに金がなくとも、何らかの娯楽を見出して、暇と闘おうとするのだ。積んでいた本、プラモデル、ゲーム、人間関係……そう、人間関係は積んでいたものにも油を差さねばならない。とにかく、積んでいたものを崩しにかかるのだ。幸い、私はかなりの娯楽を積んでいた。その上、多少の善行も積んでいた。そして、せねばならない事から逃げるでもなく、いや、せねばならない事が何なのか分からない状態なので何も分からぬまま、娯楽を崩し始める。心は簡単に満たされる、満たし続けられる。私には梶井基次郎を読む時間も、noteを書く腕もあるのだから。

正直、何もかもダメだと思った。そこに光明は無く、両手だけがある。

手を動かすことだけが残った。手を動かしてプラモデルを作るとか、本を読むとか、訳の分からないゲームをするとか。そして、手を動かして何かを書くことも、また私の手元に残っていた。私にとって執筆は飲酒に似ている。文字は酒だ。飲めども飲めども酔えず、しかし飲まねばやってられないのだ。暇があるときに、エディタを立ち上げ、書き捨てて、頭を抱えたりもする。物語では、こんな時にこそ名文が書けるものだと相場が決まっているが、現実にはそうはいかない。書いては捨て、時に思い浮かべただけで捨て、挙句の果てにこんな何の脈絡のない記事を書き始めている。
そろそろ夕飯の時間だ、幸いにして、麦飯だけはある。それでなんとかしようと思う。

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