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日本の陸運の歴史をざっくり書く

ボクは自分の訓練としてたくさん記事を書こうと思っている。
フィジカルトレーニングと同じ考えだ。

あまりフィジカルなトレーニングをやってきた経験はないが、ある程度慣れてきたら負荷を大きくしていくのがトレーニングのセオリーだ。ボクのこのトレーニングも少し負荷を大きくしていきたい。…ということで、今後は曜日ごとにテーマを絞って記事を書くことにした。

毎週月曜日は「物流」に限定して記事を書くので、ご興味ある方は引き続きお読みいただけると幸いだ。


江戸時代の日本の陸運

時代は徳川家康の頃にさかのぼる。
当時は江戸と京都・大阪が主要都市であり、これを結ぶ幹線道路として東海道が整備され、そこに東海道五十三次という駅制度が定められた。

宿駅の役割は、幕府の公用の信書や貨物の輸送の拠点であり、幕府は各宿駅それぞれの次の駅までの距離に応じて補助を与えていたそうだ。宿駅はそれをもらって人馬を常置しなければならなかった。

宿駅の中心に問屋場があり、そこを中心にして町が栄えた。そういったところは現代と変わらない。世襲の役人が宿を管理し、高札を立てて規約を公示し、人足の調達や配置、帳簿付けなどを組織で行っていたようだ。

飛脚が活躍した時代

江戸時代に陸運で活躍したのが「飛脚」だ。
裸に褌姿の男性が文状箱を棒にくくりつけて担ぎ、次の宿駅まで走って文状箱をリレー形式で渡して輸送しており、最速3日で江戸から大阪へ着くことができたそうだ。特別階級(公家・大名・武士・自社門跡など)には公定の料金(お定め賃銭)が適用されたため比較的安く利用することができたが、一般庶民が利用しようとする場合は、協定価格つまり言い値で取引がされた。
また、馬を使ったリレー形式の輸送も行われていたようだが、あまり普及しなかったようだ。当時馬は農耕用に使われることが多く、輸送に使おうとするとコストが高かったこと、また街道の路面の整備がされてなかったことなどが、普及を妨げた要因とされている。

江戸時代も荷物が大型化していた

いつの時代も荷主というものは輸送効率を考えるものだ。
江戸時代においても、輸送を依頼する側はどうにかして一度にたくさんの荷物を運べないかと考えるものだ。そうしてどんどん荷物は大きくなり、それを運ぶ人足の負担は大きくなっていった。

信書は飛脚が文状箱を棒にくくりつけて走るという方式で輸送できていたが、荷物が大型化してくるとそういうわけにはいかなくなる。そこで「雲助」と呼ばれる人足が組織され、輸送の基準が定められていくようになった。幕府は、馬の場合は四十貫(約150kg)、人の場合は1人足あたり五貫(18.75kg)を上限として、2人~6人でひとつの荷物(人を運ぶ場合は駕籠)を担いで輸送させるという規定を定め、主要な宿場に「貫目改所」を設けて重量超過を取り締まったのだ。

ただ、当時の雲助に支払われた賃金は極度に低かったようだ。
低賃金の肉体労働であったことから、雲助たちは文盲で素行の悪い人が多く、彼らは何かと理由を付けて(場合によっては脅しまがいのことをして)酒手(今でいうチップ)をねだり、博打に興じる生活をしていたようだ。また、彼らは年中ほぼ裸に褌(冬場はその上に半纏を着る)というスタイルで過ごし、居所の定まらない流れ者たちであったそうだ。

なんだか、現代の運送業界に近いものを感じる…

明治時代の鉄道の発展

明治時代の初期に日本に様々な西欧文化が持ち込まれた。いわゆる「文明開化」というヤツだ。有名なのはガス灯、牛鍋、ざんぎり頭だが、同じ時期に近代郵便、電信、馬車、鉄道なども日本に持ち込まれている。

鉄道は明治3年にイギリス人技師を招聘して企画がスタートし、同5年5月7日に横浜~品川間が開通した。その後、関西や東北方面においても鉄道の建設は進み、明治22年には東京~神戸間、同24年には東京~青森間が開通している。
これによって、鉄道が通っている区間の輸送は飛躍的に向上した。

自動車による輸送の始まりは乗合バス

自動車は明治32年に日本に入ってきている。
日本で初めて(まだ皇太子であった大正天皇に)献納された自動車は、アメリカ製の電気式の三輪自動車だった。しかし試運転の時に事故を起こし、使われないまま倉庫に眠ることになってしまったそうだ。

その後「オートモービル商会」という会社が、アメリカから輸入してきたガソリンエンジンを利用してバスを作り、明治34年に広島で乗合バスを開始した。乗合バスの営業開始がスムーズに進んだのは、当時主流であった「乗合馬車」をバスに置き換えることが容易だったからと言われている。そして、その後大阪や京都などの他の都市でも展開が進んだ。

しかし、トラックによる輸送はなかなか進まなかったようだ。
現代のように長距離輸送の需要はなく、近場の輸送は荷馬車や人力車で賄えていたからだ。

トラック輸送への転換はなかなか進まなかった

明治40年の日本の自動車保有台数は16台であった。そして、同44年には210台まで増えている。その自動車を使ってタクシー業を営むものが現れてきた。明治時代末期のタクシー料金は大型5人乗りの車両で「1時間7円」と定められていたようだが、さすがにそんなに頻繁に依頼があるわけではないので、チップをはずんでもらい、ひと月の給料を賄っていたようである。つまりタクシーを一回利用すると10~15円くらいかかり、現代のレートに換算すると20万円~30万円くらいの料金であったようだ。

このように、タクシーは贅沢な乗り物で一部の特権階級の人しか利用できないものであった。そんな高級な乗り物を貨物輸送に使えるはずもなく、ほんのわずか「貨物輸送」の看板を掲げた会社もあったようだが、採算は取れなかったようだ。その後、自動車は軍用として重要性が認められ、国内でも大正3年から製造が開始されるが、第一次世界大戦の影響で欧州からの部品の輸入に苦しんだことから、なかなか成長しなかったようである。

一方で、鉄道の発展は目覚ましく、明治27年に京都で電車の運行が始まり、東京でも同33年に現在の山手線が環状路線として形成され、都市圏における電車の需要は高まって行ったのだ。

しかし、それも関東大震災により壊滅的な打撃を受けることとなる…

国産車製造がトラック輸送拡大のきっかけ

震災後、当時の東京市は、破壊された市電の代わりとしてアメリカからT型フォード車を1,000台輸入した。欧州車に比べて価格が安く、納期も短かったからアメリカ車は選ばれたそうだが、この1,000台のT型フォードが東京市営バスとして運行したそうだ。

しかし、震災の影響は深刻で、日本の経済状況は良くなかった。
そこで、日本政府は「国産振興委員会」を設置して、自動車の国内生産の補助を行った。その支援を得て日本で初めてトラックを生産したのが、現在のいすゞ自動車だ。当時は今では考えられないほどの円安だったことから、輸入車は国産車に価格で勝つことができず、国産車隆盛の時代が訪れることとなった。

陸送が主流になったのは高度経済成長期から

別の機会に書こうと思っているが、古来日本では水路を使って物を運搬する方法が主流であった。それがこのような経緯を経て、陸送のベースが形成されてきたのだ。

昭和30年頃までは、まだ日本の陸路は未発達であったが、高度経済成長期に入り、国内でモノを動かす必要に迫られていた時代となった。それに伴って、道路や倉庫などが整備され、自動車の性能も上がったことから、徐々にトラックによる輸送が重宝がられるようになってきた。昭和50年代には、多品種小ロットの輸送が主流になり、小口配送の需要が伸びたが、それはヤマト運輸が昭和51年に「宅急便」をスタートさせたことも大きく関係しているだろう。


さて、江戸時代(1600年頃)から昭和50年代(1970年代)までの日本の陸送の歴史をざっくり書いてみた。来週以降(月曜日)に海運・空輸の歴史、そして現代の物流について書いていこうと思う。


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