ケンチクオタクの建築概論•後編
「建築とはなんだろう」
建築は行為である。1年間の思考をこの実感から出発させることにした。それは作る人の行為であるとともに使う人の行為でもある。
本屋の建築ブースの棚にはよく建築家の作品集が並んでいる。私がかつて夢中になった本たちだ。だが果たして建築は建築家の”作品”なのだろうか。建築とはもっと多くの人を巻き込んだ共同の営為なのではなかろうか。まずお金を出す人がいて、設計者が線を引き、数々の職人が図面から実際に建ち上げ、使う人がいて建物が生きる。周りの建物を見渡しても設計者が表に出てくる建物は圧倒的に少ない。むしろ建物を見ていて目につくのはそこに出入りする人、建物を使う人々だ。
ここで、建物を使うということを考えたい。建物が使う人の人格を形成することがあると思う。高度経済成長期、上に上に伸びる東京タワーや霞が関ビルヂングに人々は中流の夢を託した。渋谷109やパルコが渋谷の街を賑わす若者を生み出した。六本木ヒルズがヒルズ族のライフスタイルを生んだ。何も都心のランドマークだけの話ではない。地方の瓦葺きの民家に住む人、郊外の団地に住む人、臨海部のタワーマンションに住む人。どこに、どんな建物に住むかで生活も考え方も全く違ったものになるだろう。子供の頃に暮らした家ならばなおさらだ。でも、それはひっくり返せば、使う人が建物の性格を決めるとも言える。建物の使われ方が建物の機能となり、それに適した形がデザインされる。時には、建物の使われ方が変わって、リノベーションされて形が様変わりすることもある。建物の生き様は、その建物が使われた時間と記憶の変遷と形の変容に表されるのだ。そして、建物がどんな人にどう使われたかが積もり積もって、いつしか建築文化と呼ばれるようになる。建物は、使い込まれて、慣れて、熟れて次第に建築になるのだと思う。だからこそ、建築は行為なのだ。それも、手間と時間をかけて建物を建てて使って直して、いつかは壊して、という行為のすべてがそのままで建築することなのだ。
それならば、建築は誰のものなのだろう。建築する主体はなんだろう。私はここでその建物に関わる者(物)全てだと考えたい。何も人だけの行為ではないということだ。地形や地質の条件は建物に強く作用するだろう。雨風による風化・劣化も建物を様変わりさせる。動植物が建物に住みつくあるいは根をはることがあるかもしれない。もっと抽象的に考えてもいい。建物が使い込まれるその時間の経過が建物を建築たらしめているとも言えまいか。
ひとつの思い出がある。ある友人宅には道路に面してレンガ敷きの前庭があった。レンガブロックの隙間には土がたまり所々草が生えていた。私がちょうどその前庭を眺めていた時、2羽のスズメがそこに飛んできた。スズメたちはレンガの隙間の小さな草地にしきりに頭を突っ込んでいた。草地はスズメたちの餌場だったのかもしれない。その時、私は前庭を有効に使えないかと考えていた。例えば、本棚を置いて誰にでも使えるようにしたらどうだろうかと考えていた。いわば、人のための建築空間を考えていた。けれども、レンガブロックの隙間の草地で餌を探すスズメを見つけた時、もうそこはスズメのための建築なのだとはっきり気がついた。人のために作られた前庭の空間がスズメの命を支える空間になっていた!スズメだって餌をついばんで建築するのだ。
建築が行為ならば、それもあらゆる者(物)たちの行為ならば、どんな行為が建築と呼べるのだろう。食べることも歩くことも、ただそれだけでは建築しているとはとても言えない。私はここで建築3条件なるものを考えてみたい。建物が以下の3条件を満たすとき、そこに建築が立ち現れるだろう。
①建築とは建物を中心とした意味の集積である。
建築には色々な意味が絡みついている。だからこそ、政治の面から、経済の面から、歴史の面から、力学の面から、芸術の面から、その他様々な面から建築を眺めることができる。その眺めるというとき、私たちは物理的には建物を見ることで建築に絡みつく意味を読み取るのである。いわば、建築の意味の層は建物の一点において現実と結びついている。社会的理学的文化的な意味が錯綜して発散しがちな建築像は、建物が確固として存在しているからこそ現実の対象として論じることができるのだ。すなわち、建物に降り積もった多種多様な意味の地層を読み解こうとするとき、私たちは建物を見つつも建築を考えていることになる。
②建築とは土地の要請に応えることである。
第1条件は建築を考える時の建物の実在の重要性だった。そして建物が確固たる実在として根をはるのが土地なのだ。建物を建てるときまず調査するのはその土地だ。どんな特性のどんな地質の土地なのか調べて、場合によっては土質を改良して、敷地の形や大きさに合わせて建物を建てることになる。また建物は一生その土地から離れることはない。さらに言えば、土地という言葉は敷地以外に地域や土着といった意味も持つ。世界各地や国内の諸地域で息づく土着の建築文化を見ると、土地柄がいかに建築様式や建物に対する考え方に影響を与えているか分かる。ここで土地の要請とは、土地の特徴や土地の特異性と言い替えてもいいが、敷地と風土が建築に及ぼす影響を意味する。そこで、土地の要請に応えるとは建物が「そこにある」ということを突き詰めることである。土地の要請に応えなければ建物建設は始まらず、建築に絡みつく意味は読み取れない。
③建築とは居心地を考え抜くことである。
居心地という言葉はのんびりくつろいだ雰囲気を表すことが多いが、もっと広く様々な心持ちと捉えることもできる。今回は後者を建築に特化させて、建物の中で何を感じどう振る舞うかという意味で使いたい。建物の中での振る舞いとは建物を使うということだから、前半の議論を引けば、これはすなわち建築するということだ。すると、居心地を考え抜くと言ってもなにも建物の使用者の居心地だけに限らないことになる。建築する主体は人に限らないからだ。人の居心地ならば住空間の快適さということになる。風や太陽の居心地では建物の中の空気の通り抜けや日の差し込み方ということになろうか。庭に茂る草木の手入れは植物の居心地だ。いずれも建築に大切な居心地たちである。
これら3条件を立てた時、私がしたいことは建築し続けることなのだと思った。これは「建設し続ける」とはまた違う。これまで書いてきた意味において「建築し続けたい」と思ったのだ。それも、建物一つ一つに根ざして建築し続けたいと思った。私はこれを「建物の一生を看つづける」と表現している。いわば、建てられて使われて直されていつしか壊されるまで、建物を世話して、時には看病してやるのだ。でも一生というのはいささか大げさすぎるかもしれない。今では軒並み30年ほどで取り壊されるようになったが、本来建物の寿命は人よりも長いし、自分が世話するならできるだけ長生きしてほしい。それでは結局、建物に自分が看取られるのがオチだ。ならばせめて、建物を建てて使うところまで、あるいは使って壊すところまでは世話をしたいと思う。
私はこの一年、建築を外から眺めようとしてきた。建築が他の領域といかにつながっているか、また、建築界隈の外にいる人から建築がどう見られているのか知りたいと思ったからだ。建築を専攻していない友人たちと時間を過ごし、彼ら彼女らに建築の話をしてみた。すると、建築界が内輪で盛り上がっているだけなような気がしてきた。
例えば、新しい文化施設が竣工したとしよう。建築雑誌には図面や写真付きで記事が掲載される。設計者の想いが熱っぽく語られ、採用された工法なども詳しく載せられる。紙面では批評が盛り上がり、新聞やテレビで取り上げられることもあるかもしれない。私はそれらの情報に積極的に触れようとし、その建物の前を通りかかった時にはすぐに近づいて隅々まで観察するだろう。建てられたばかりの建物の誇らしげな姿に私まで晴々した気分になるのだ。そこで、そばで退屈そうにしている友人に「この建物はどう?」と聞いてみると、「うん、かっこいいね。」と返ってくる。それっきり終わり。私がどんな施設が入っていてどこに照明があるのかまで見回した建物は、他の人からすれば「かっこいい」だけでしかない。
建築から「かっこいい」のベールを剥がさなくてはいけない。使う人の人格にまで根をおろす建物の姿は、あらゆる人や物が建物に関わって建築している姿は、かっこいいで片付けてしまってはわからない。「このままでは建築が見捨てられる」とも思った。私たちの生活の隅々まで根をはっているはずの建築が、いつしかほとんどの人から省みられなくなって、ただ絶えざる工事で利益を生み出し続けるためだけの利潤追求装置になってしまうだろう。
そこで、これから長い間付き合っていくことになるかもしれない疑問が湧いてきた。それは、「建物が大切にされるためにはどうすればいいだろうか」という疑問だ。今のところのひとつの回答はできるだけ多くの人に意識的に建築することに関わってもらうということだ。建物がどう使われるかは、建物を使う人たち自身が考えればいいではないか。どんな空間が自分にとって快適で使いやすいかは人それぞれだし、自分自身が一番よく知っている。使う人が自分たちで意見を出し合って建物を考えれば何が必要な設備かも見えるだろうし、便利なところも改善点も共有できているから改修だって的確にできる。なにより、自分たちであれこれ考えて作るのって楽しいでしょ?でも多くの人には建物設備や見積もりや法律関係のことはわからない。そこで専門家の登場だ。専門家の役割は計画の進行に常に付き従って必要な時に助言したり業務を受け持ったりすることだ。計画全体を見通して細かな点まで気を配るのは専門家でなければ難しいだろう。そしてこれは、「建物を看つづける」ことに他ならないのだ。
建築を外から眺めることで発見したのはネガティブなことだけじゃない。建物を前にしなくても建築のことを考えられるのだということにも気がついた。友人と議論しているとき、話題が食事・経済・政治・教育と何であっても私はそれが建築と繋がっているのかを考えていた。そして驚くべきことにすべて建築と密接に結びついていた(棚田と建築が土地の継承をキーワードにつながっていたことも!)。それほどに、建築の宇宙は広大だった。だからなにも、建築を考える上で建築を話題にする必要はないのだ。
私の思考は常にどこかで建築に繋がっている。私は建築を一つの単位にして世界を見ているのだ。建築を物差しにして世界を測って、私の世界を組み上げているのだ。私の恩師は「数学は言語だ」とよく言っていた。私はそれを、「実生活の世界とは別に数学の言葉で書かれた数学の世界があり、その世界を理解したり私たちの世界に役立てたりするために、私たちは外国語のように数学の世界の言語を学校で勉強するのだ」と解釈していた。そして、そうした意味において私にとっては建築が言語だ。建築の言葉で、この世界を理解したいのだ。
私はこの思考法をひとつのプロジェクトにすることにした。プロジェクトと言ってもはっきりした計画や目標があるわけではない。普通に生活しながら、建築の目を通して世界を見て「建物が大切にされるためにはどうすればいいだろうか」と考え続けること、そうやっていつも建築し続けること。これがこのプロジェクトのすべてだ。私はこのプロジェクトを「或る家 a home」と名付けた。いつか、普遍的でそれでいて一人々々に固有な建物や暮らしの形が見つかることを願って、こう呼んでいる。
さて、建築とはなんだろう。
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