見出し画像

そこに自由はあるのか②

生きていくって何故こんなにも不自由なのか、その原因を突き詰めると、肉体を持っていることに集約されると思う。肉体と言うと生々しすぎるので(いろいろと違った意味もありますしね)、身体(からだ)と呼ぶことにしよう。
 
長い道のりを歩かなければならないとき、空腹だったり、身体の状態や周囲の条件が悪かったりすると、身体を引きづって生きていることがこの上なくうっとうしくなる。
 
また、梅雨もあけようとするこの季節、ムシムシする上に日差しがあると、不快指数はマックスとなる。動き回ればたちまち汗が吹き出し、じっと座っていてもじわっと汗がにじんできて、息をするのもうっとうしい。こんなとき、身にまとっている分厚い肉の覆いを脱ぎ捨ててしまえたら、どんなにラクだろうかとつくづく思う。
 
身体は老いと切り離せない。刻々と老化する身体。老いれば老いるほど身体をまとって生きるのが辛くなる。老化を少しでも遅らせるために、はたまた老人特有の病気にならないように、栄養に気を使い、運動やら健康チェックやら欠かせなくなる。たとえ、若く健康であったとしても、身体を持っている者の宿命として、それを最低限維持しなければならない。
 
つまり、栄養の摂取、排泄、睡眠のサイクルを繰り返すのだ。そのためにお金を稼がなければならない。お金を稼ぐためには仕事に就かなければならない。仕事に就くためには、人並みに教養を身に着け、人並みに身なりを整え、人並みの住まいに住んでいなければならない。PCやスマホも人並みに必要だろう。仕事や家事ばかりしていると鬱々としてくるので、気分転換もしたくなる。娯楽を楽しみたい。外食や旅行にも行きたい。やっぱりお金が必要だ。そのためにはやはり仕事に励まなければならない。
 
という具合に、身体を持っているが故に、お金→消費→お金→消費・・・の出口なきループをぐるぐる回り続けることになる。これが、仮に身体がなく、精神だけで生きていられるとしたら、どうなるだろう。精神は、飲んだり食べたり、排泄したりしない(と思われる)し、衣類も住居も必要ないので、お金は要らない。従って、仕事も家事もしないで済む。つまり、あの無限ループから抜け出せる。ということは・・・完全なる自由が手に入るじゃあありませんか(やったね!)
 
人はよく、外見で判断するな、中身を見ろというが、その中身(つまり、精神)だけになれば、外見に惑わされる心配もなくなる。他人と比べて自分の容姿や身体的欠点を嘆く必要もない。自分も他人もルッキズムから解放され、化粧や美容整形も不要となる。
 
TⅤやネットでは、どこもかしこも、これ(商品)を使えば、シミを消します、シワを解消して10歳、いや20歳若見えと、アンチエイジングを救世主の如く連呼しているが、シミがあったらいけないのか? 年相応にしわが増えることがそんなにもマズイことなのだろうか? そんな外野の騒音や内面の焦りからも身体から解放されればなくなる。
 
私が一番欲しいのは、他でもない、身体からの「自由」だったのだ。
 
昔、「心だけ愛して」と歌手が切々と歌っていた。そして「心だけ愛して、心だけ愛して、あなたにそれができますか?」と詰め寄った。心だけ愛する。「もちろんできますとも」と言いたいところだが、果たして本当にできるのだろうか?
 
私は誰かを思い出すとき、まずその人の顔を思い浮かべる。すると、その人の表情、仕草、声が自ずと脳裏に再生される。どうしても、身体、又は身体から発せられるものを手掛かりにしてしまうのだ。まあ、今の時代、SNSでしか知らない人もいるわけだし、顔も声も、あるいは正体すら知らなくても、メッセージのやり取りだけで好印象を持ったり、嫌な思いをしたりすることもあるだろう。
 
でもやっぱり、相手の外見を全く知らなかったとしても、交流をしているうちに私の中にその人の顔、はたまた姿形の全体イメージを勝手に想像してしまう。姿形のイメージを持たずに付き合いを続けられるものなのだろうか?
 
そもそも、精神だけの世界ってどんな世界なのか? ここで言う精神とは、先日言及した「意識」、「魂」、或いは「心」を含め、身体、即ち物質に対する相対的概念と考えることにする。しかし、考えれば考えるほど、私は思考の底無し沼にはまっていく。精神が物質ではないとしたら、そこに他人との境界は「有る」のだろうか?有ったとしても、そこに「在る」ものとして捉えられるのだろうか?それに「有る」とか「在る」とか、「無い」だって、物質にしか当てはまらないんじゃないか?
 
続く・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?