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これは運命なのか①

私は翻訳を稼業としている。英語の文法に、目的を表すto不定詞というのがある。例えば、
「She studied English hard to become a translator」なら、
「彼女は翻訳家になるために、英語を熱心に勉強した」
と訳せるのだが、結果を表すto不定詞もあって、同じ英文が、
「彼女は英語を熱心に勉強して、(その結果)翻訳家になった」
とも訳せるのである。
 
一見気にするほどのことはないようだが、両者には大きな違いがある。前者は、本人の意志(意図)が強調されているのに対し、後者は、結果としての事実に重きが置かれている点だ。
 
私の場合、後者の訳しか当てはまらない。私は英語を一生懸命勉強したが、特に翻訳家になるためではなかった。流れ流れて、気が付いたら翻訳を生業にしていた。
 
我々は日々無数の選択肢から1つを意図的に選択し、自分の意志で人生を決めている(と思っている)。しかし、本人の意志とは関係なく、結果だけを見ると、そうなるしかなかった、つまりそれが「運命」だった、みたいになってしまうことが多々ある。最も一般的には、事故や病気で死亡した場合だろう。
 
歴史を紐解けば、あらゆる事柄が運命の一言で片付けられてしまうことは明らかだ。クレオパトラや楊貴妃、エリザベートなどの絶世の美女(とされる女性)たちが、その美貌を称えられ、権力者に寵愛された後、悲劇という運命が待っていることを我々は知っている。
 
今、ラジオのドイツ語講座を聴いているのだが、そこで、ゾフィー・ショール(Sophie Scholl)とイルマ・グレーゼ(Irma Grese)という二人の女性が取り上げられた。二人はいずれも先の大戦に前後して処刑された。ゾフィーはナチズムへの反逆罪でナチ政権によって、イルマはナチズムに加担した罪で連合国軍によって。処刑されたとき、二人は、二十歳を少し過ぎたくらいの年だった。それだけではない、実は二人ともナチス時代は、ヒトラーユーゲント(の女子部)に入団していたのだ。様々な偶然が重なり、一人は英雄として扱われ、一人は残虐な戦犯として語り継がれることになってしまった。
 
ゾフィーは命の危険を顧みず、ナチズムに異を唱えるという勇気ある選択をし、今もなお体制に対する抵抗運動の象徴としてその名が掲げられる。だがイルマの方は、看護師になりたかったのに、配属されたのが病院ではなく、アウシュビッツ収容所であったという結果が彼女の運命を決めた。もし、イルマが初めから病院で働いていたら、彼女の評価は確実に違っていただろうに、と気の毒に思えてくる。
 
このように、必ずしも自分の意志で決めたわけではない選択をして生じた結果も、自分の運命として受け入れなければならないのだろうか? もし私がイルマ・グレーゼだったなら、もしあのとき病院に配属されていたなら、或いは生まれた国が、時代が違ったなら私の人生は絶対に違っていたと必死に抵抗しただろう。彼女は、連合軍の裁判で冷静に処刑を受け入れたという。
 
戦争という非常事態ではなくても、人が岐路に立たされることは多々ある。受験校や面接を受ける会社をどれにするか、もあるだろう。記憶に新しいのは、パンデミックだ。あの場合、どの選択肢を取るかで悩むのではなく、多くの選択肢が奪われることで人は苦しんだ。多くの学校がオンライン授業になった。クラスメートと交流どころか、顔も覚えられない。文化祭や修学旅行などの行事が取りやめになった。世の中も、なるべく外出せず、ステイホームやテレワークが推奨され、人と直接会う機会が極端に減った。
 
実は私もパンデミックの影響を大きく被った一人だ。何年も前から私は2020年にドイツに短期留学を実行することを計画していた。年初に新型コロナウイルスの発生が話題になり始めたが、私は、春になればインフルエンザのように終息すると思い込み、秋の出発に向けて準備を進めた。ところが状況は収まるどころか、悪化するばかり。とうとう一般の飛行機は飛ばなくなった。私は無念の思いで、留学を断念するしかなかった。
 
それ以来、目標を失い、かなり鬱々とした気分で時を過ごしていた。が、これではダメだと思い、今できることは何かを考えた。そしてたどり着いた答えが、ドイツ語学校に通って、次にドイツに行けるようになるまでに、少しでもドイツ語を上達させることだった。そこで受講生達と出会い、私より大先輩のドイツ語学習の仲間もできて、ドイツ語のみならず、ドイツ語圏に関する知識も深めることができた。
 
そして、はたと思った。これは、運命だったのだろうか?
 
つづく・・・

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