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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(24)- いよいよ広東語通訳者として本格始動 -

広東語通訳者への契機

文書翻訳から映像翻訳へ。そしていよいよ広東語通訳へとじわじわとシフトする。

香港在住時の勤務先社内や李小龍會での通訳はやっていたとはいえ業務の一環としてであった。プロとしての大きな始まりは2011年の大阪アジアン映画祭。

大阪アジアン映画祭

2010年のある日。それまで私は大阪アジアン映画祭の存在を知らなかった。普通話が得意だけれど広東語もある程度解する友人とのお喋りで存在を知る。その年の香港からのゲストはなんと杜琪峯(杜Sir)だった。友人は杜SirのQ&Aを観に行ったのだが、通訳者が上海人で広東語を解さない人だったという。当時、普通話をまだ上手く話せなかった杜Sirは通訳との意思の疎通が上手くいかず、杜Sirが広東語で話したことを「私、広東語わかりません」と通訳者が訳せずに終わってしまったそうなのだ。その頃の事務局には広東語通訳者の登録が無かったようで仕方のないことではあったけれど。

せっかくの杜Sirという大物ゲストだったのに、話の内容が皆に知ってもらえないのは残念すぎる、だから来年は Sophieがやってよ!と友人に言われた。この友人の一言で今の私があるといっても過言ではない。友人には感謝しかない。

なるほど。香港映画のゲストなら香港人が来る。それは港式廣東話の私の出番かもしれない。日本に帰ってから香港人と港式廣東話で話すことがめっきり減った私にはチャンスだ。もともと香港映画が大好き。やるしかないでしょ。

映画祭ホームページから大阪アジアン映画祭2011にボランティア登録をした。当初、事務局もこわごわだったように思う。そりゃそうよ。本人が広東語ペラペラですとか言うけれど、本当にペラペラなのか、10年間の香港在住で社内の翻訳・通訳やってました、李小龍會のイベントで舞台での通訳もやってきましたと言うけれど、舞台でのQ&Aで使える実力なのかどうか、香港人のスタッフも友人もいない事務局側としてはチェック機能が無いのだから信じていいのかどうかさえわからない。そんななかで、よくぞ私の言うことを信じて使ってくださった事務局には感謝しかない。

彭浩翔導演作品『維多利亞1號 / Dream Home』

最初のゲストはパンちゃんこと彭浩翔監督だった。当時はボランティアの数もまだ少なかったせいか、私のタスクは空港へのお迎えから始まった。これが実はとてもプラスになったので、これまた事務局には感謝している。パンちゃん、なんと一人でフラッとやって来た。広東語で出迎えると「おー!広東語の人がいるのか!良かった!」と喜んでくれた。これだけでも嬉しくてテンション上がった。ラピートとタクシーの車中でパンちゃんにいろいろ質問した。「なぜホラーなんですか?めっちゃ怖かったですよ~」「僕、ホラーが大好きなんだよ」「あのシーンはなぜあんな?」・・・すでに作品を観て準備はしっかり出来ていますよ、というアピールのつもりもあったし、一観客としての興味や感想もあって、いろいろと話を聞いた。これが功を奏する。

さていよいよ本番のQ&A。私はもともとあまり緊張しない性質ではあるけれど、さすがにこの時は多くの観客を前にしての舞台での通訳ということで少々緊張気味だった。しかし、緊張してしまうと自分の持てる力が発揮できなくなるので、必死で緊張を解きほぐした。緊張というより「よし、頑張る。私なら頑張れる。必ず上手くいく。」という決意だったかもしれない。

観客の皆さんから様々な質問を受ける。私が一観客として感じたことや疑問に思ったことと重なる質問ばかり。車中や始まるまでの控え室などで聞いていたので、パンちゃんの回答も難なく理解できる。これは私にとっても質問者にとってもラッキーなことだったと思う。

アレをどう訳すか

ただ、やはり難しい場面もあった。この作品の一番の見所はどこか、の質問に答えたパンちゃんの使った単語。下手に文書翻訳などをやってきたせいで公に使ってはいけない単語がある、というコンセプトがあっただけに、放送コードで「ブーッ」音のなるような単語をさてどう言えばいいのか、一瞬で頭の中がグルグル回転した。せっかくの面白い回答に盛り上がっている最中だ、この単語のためだけに今の流れを止めるわけにはいかない、でも日本語でどう言えば?

広東語は本当に多彩で多様で便利な言葉である。「細佬(=弟)」「支嘢(=一本のもの)」「大笨象(=象さん)」・・・実にいろいろな隠語があるのだが、さて日本語にした際にどれを使えばいいのか?どの言い方をすれば放送コードもクリアできて、しかも皆さんにすんなりわかってもらえるのか?集中が深くなる。

「ちょん切ったアレの収縮する様やスピードに物凄くこだわった。理想の収縮する様子やスピードが完成するまで何度も何度も作り直した。」

結局、モノとかアレとかでなんとか凌いだ。そして後日の映画系サイトで「通訳さんナイス!」と書いて頂いて、あの日の努力が全て報われた。

結果は上々

舞台から降りた時の事務局の皆さんの安堵の顔が印象に残っている。始まるまで、本当に舞台で通訳できる実力の人なのだろうかと心配していたのはありありと感じていた。そしえ舞台から降りてきた私を見る表情はキラキラしていた。「大丈夫だった!」という安堵感が見えた。事務局にとって、やってみるまでは一か八かの博打である。前年度の苦い記憶もある。スタッフさんの心配も当然だった。それでも私にチャンスを与えてくださったのだから、絶対に失敗はできない。私なら出来る、大丈夫だという自信はあったとはいえ、それなりの結果を出さなければならない、というプレッシャーもあった。だからこそ事務局スタッフの安堵の表情を見て私もとても嬉しかった。

そして何よりもとても楽しかった。通訳は私の天職なんだわ!と思った。
(何回目の天職やねん、と自分でも思いつつ。)

この成功体験がプロの通訳者としての始まりだった。この仕事へ私を導いてくれた人達に大いに感謝した。そして今でも感謝している。(続)

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