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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(31)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」シアトル&LA -

第2部 - Seattle & Los Angeles -

番組の流れ的に次のアメリカ編の話をしてみよう。こちらも Los Angeles には信頼できる現地コーディネイターがいたのだけれど、李小龍業界的な大物を案外私が知っているということでプロデューサーからお願いされて繋いだのが Seattle のターキー・キムラ氏と Los Angeles のロバート・リー氏。

Taky Kimura ターキー・キムラ氏

ターキーさんに会ったのはこれが二度目。初めてお会いしたのは龍哥のお墓の前だったのだけれど、このミラクルについてはまた機会があれば別に書くことにする。1924年生まれのターキーさん、この時91歳、とても矍鑠としておられた。ご両親が移民してこられたのだけれど、ターキーさんは日本語はもう全く話せないという話だった。「あ、でも、日本語の単語を一つだけ覚えているよ!・・・ミカン!」

ミカン?なんでミカン?「ありがとう」とか「おはよう」とかじゃなくて「ミカン」って面白すぎる。『Regards from the DRAGON - SEATTLE』での自己紹介に書かれているけれど、日本のミカンを初めてアメリカに輸入できるようにしたという経歴をお持ちだった。ターキーさんは龍哥の高弟であり無二の親友であるというだけでなく、大戦時に日本人収容所に強制収容されたり、日本のミカンをアメリカに輸入できるように動いて輸入禁制品というステイタスをひっくり返したりといった歴史的に重要な背景を持っておられるので、そうした方面からのアプローチをしてくれる歴史家などがいれば良いのにと思う。

ターキーさんへの取材については最初に友人のDTに繋いでもらい、そこからのアポイントや現地での通訳まで全て私が行った。

インタビュー時は記憶が飛んでいたり受け答えがスムースでなかったりという時もあったが、いざ Jun Fan Gung Fu の動きを見せるとなったら、さっきまでのヨボヨボなおじいちゃんはどこへやら、シャキーン!としてシャープに動きだすわ、滑舌まで良くなるわでビックリ。やはり自分の好きな事、マーシャル・アーツを極めた者、というのはそういうものなんでしょうね。きびきびした嬉しそうなターキーさんを見て思った。

事前に Milton Wong氏にお願いしておいた龍哥とターキーさんの絵をプレゼントした。随分前にネットに上げてからいろいろ拡散されているけれど、番組本編からのキャプチャでない単独の写真はこれが元写真、クレジットは私にある。

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ターキーさんにはこれからもずっとずっとお元気でいて欲しい。また会いに行くから待っててね。

University of Washington ワシントン大学

Seattle では絶対外せない場所にも行った。 University of Washington ワシントン大学。この学舎は1983年に初めて訪れた時から変わっていない。本当に美しいキャンパスと建物たち。

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このスローガンはこの時初めて気付いたのだけれど、つまりは『Be Water』だよね。

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ここは龍迷なら必ず写真を撮りに行くポイント。私もワシントン大学に行く度に写真を撮っているので、何回写真撮ったら気ぃ済むねん!って感じ。

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龍哥の墓参り

そして当然行く。ベストショットを、との思いでカメラマンさん頑張ってくださった。私にとっては3度目のお墓参り。

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「DO YOU KNOW BRUCE?」@ Wing Luke Museum

そしてこれまた上手い具合に Seattle の中華街にある Wing Luke Museum で開催中だった「DO YOU KNOW BRUCE?」展にも行けた。常設展ではないので、ちょうど開催中にSeattleへ行けたというのは本当にラッキーだったとしか言いようがない。これまた番組に感謝している。

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Robert Lee ロバート・リー氏

その後 Los Angeles へ。Robert Lee 李振輝氏はウチ(李小龍會)の主席なので、私は当然仲良し。現地コーディネイターさんもアポイント取りはできると仰ってくださったけれど、まあ、関係性が濃いのは私だからということで私が手配した。見晴らしの良い公園で撮影。

Robert Wall ロバート・ウォール氏

次に Robert Wall 氏。『ドラゴンへの道』『燃えよドラゴン』『死亡遊戯』で見慣れた耳横がこんもりした髪型ではなく、ストレートに撫でつけた髪型だったのでちょっと残念。このインタビューも私がやらせてもらったのだけれど、聞いていて「それウソやん」「ちゃうやろ」みたいな話も多かっただけに、番組内でかなり大きく取り上げられていたのには驚いた。番組の柱が『燃えよドラゴン』へのフォーカスだったので仕方なしといえば仕方なし。私にとっては単なるセクハラおやじだったことは言い添えておく。

Paul Heller ポール・ヘラー氏

そして『燃えよドラゴン』プロデューサーの Paul Heller 氏。気のいいおじいちゃんといった感じだったけれども、やはりハリウッドで生き抜いてきたプロデューサーだけに私としてはちょっと警戒しつつ話を聞いた。

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このインタビューは Los Angeles の中華街で行った。龍哥の銅像があるからという理由で。普段、この銅像の周りは柵で囲まれているのだけれど、我々は中華街の管理者に取材のアポイントを事前に取ってあったので、この時は撮影用に柵を外してくれただけ。旅行で行かれる方は柵があることをご念頭に。あ、それと、龍哥の顔も姿かたちもものすごく似てないので、それも心の準備をしてから観に行ってくださいね。私はこの時2度目だったのでなんとも思わなかったけれど、さすがに初めてこの銅像に会いに行った時には「えー!なんで!全然似てへんやんー!」と叫んだことは申し添えておく。

この仕事で得た教訓

今回の内容は旅行ブログみたいになってしまったけれど、この仕事で得た教訓は大きい。
1.専門を持つこと
2.複数言語の習得がアドバンテージを生むことがある

私の場合は専門が「李小龍」。番組視聴者のターゲットを浅く広く設定しているのであれば、プロデューサーからの質問に即答あるいは早々に答えを出してあげられる。そしてラッキーなことに香港側とアメリカ側の両方に人脈のコネクションがあったので、コーディネイターとしても窓口一つで対応してあげられた。

言語についても、広東語と英語が使えることで、やはり香港とアメリカ両方に私を連れていくメリットがでる。しかも、自分の専門分野のことなのでインタビュイーの話が全てすんなり理解できる。業界用語的なものにも対応できる。広東語はやはり英語や普通話に比べると需要の全体量が少ないので、広東語にプラスして他言語もある方がより仕事の受注機会が増えるということを通訳者を目指す方は心に留めておくと良いと思う。(続)

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