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縁について

えん【縁】

〘名〙
[一] 二つ以上のものが寄りついてかかわりを持つ作用を表わす。
① 仏語。
(イ) 広義には結果を引き起こす因のこと。狭義には結果を引き起こす直接の内的な原因である因に対し、それを外から助ける間接の原因をいう。 

コトバンク

ふと、現在に至るまでの縁を振り返ってみたく・・・・

第1「人」

 言葉を操る、血の通った人生教材。
 キャラクターではなく、リアル(現実世界)のみで触れ合ってきた人を思い出すことにする。記憶は5区分。

①0〜6歳
 家族、特に母親と姉、時々祖父(父方)。図鑑や絵本の内世界と森羅万象の外世界との境界に日々悪戦苦闘していた。ちょっとした慣用句を覚えては1人で口遊む。基本は、足で大地を掴み、虫を追うことに没頭していた。原点回帰ではないが、MY理想郷に最も近い環境であったことは間違いない。
 ただただ狭い視野で、本当に私が世界の中心だと思っていた。ある日、私は、母と姉に対して、鬱憤晴らしのため、“地震”を起こそうと考えた。気の済むまで自分が回転した後、パッと二人を見ると、二人はバランスを崩して倒れ込むのである。毎度、私はシメシメと得意気な顔をする。
 言うまでもなく、これは二人が私の“思い込み” に付き合ってくれただけであって、私は本気で世界(地球)をコントロールしていると思っていた。(※ぐるぐるバットと同じく、回転によって三半規管が混乱し、ただ自分の視界が歪んでいただけ)
 もしかすると、「いかに自分の思い通りに世界を動かすか」という強欲な本能を、壊されずに済んだのかもしれない。言い換えると、「何をやっているんだ」というリアリストな人がおらず、自由気ままな性格が作られていったのだろう。
 一方、そんな私に、唯一教師として現実を叩きつけていたのが祖父である。ちょこまかとすばしっこく狡い私を、(何か迷惑をかけるたびに)体罰をもって矯正していた。といいつつ、母姉と祖父が8:2くらいの割合だったので、最低限社会性のついた、あくまで「小猿」だった。

②7〜13歳
 小学4・6年の担任教師。自我が脆かったために、どことなく俯瞰(?)した状態が常であった。未熟で自由な私に“不自由”を叩きつけた(教えてくれた)2人の教師。初めて社会性が何たるかを学んだ時期。
 遅刻ばかりしていた自分は、ほぼ毎朝注意を受けていた。なぜ遅刻したか、なぜ遅刻がいけないのか、次遅刻しないためにはどうすればよいか、ほぼ毎日の説教であった。正直、何も話したくなかった。家の事情も、実はただ寝たいだけという内心も。「遅刻は悪」ということよりも「時間に遅れるとこの人は気分を悪くする」という間接的な教育だったのかもしれない。今でも時間にルーズな面があるので、もはや根本の性格問題である。
 一方で、連絡帳の一環としての日記習慣も印象深い。“日記大賞”という賞を設けて、優れた日記にはマーカーで花丸が与えられる(ただそれだけ)。そして、特に優れた日記は皆に共有される。私は、まんまとこの作戦にやられた。日記大賞をとるためにー皆に共有されるためにー日常を詳細に、あるいはストーリー仕立てに表現する経験は、言語化に“楽しさ”を見出す出発点となった。文章を書くことに、とりわけ言葉を使った自己表現に苦手意識がなくなったのはこの教師のおかげかもしれない。

③14〜15歳
 厨二病にいうと、ここで“自分”と出会った。この頃から実質の年齢(脳内ベース)は変わっていない。自他の境界線がようやく滑らかになりはじめた時期。(≠外向的)
 「どう思われてもいい=どう振る舞おうとも自分の形はかわらない」ということに気づいた瞬間。クラスメイトに「なんか、ちがう!!!変わった!!!」と露骨に叫ばれたのを今でも覚えている。別に、急に面白くなったわけでも、殻に引きこもったわけでもない。
 この頃から、思考と行動が一致し始めている。いい意味でも悪い意味でも。例えば、コレがしたい、〇〇に行きたい、〜はしたくないetc.というのは、無意識なことが多かった。しかし、この時期を境に、自分が何かをしていれば、そのシーンが鏡に映し出されている(カメラで撮影されている)ような感覚になった。簡単にいえば、“客観視”なのだろうか。
 そういえば、小学生の頃のクラスの人気者は、中学では静かになっていた。

④16〜21歳
 部活顧問、現代文と倫理教師(2名)。骨組みができたあとは、肉付けをするのみ。体力、精神力、知力、協調力etc.・・・コーンフレークでいう、(都合のよい得意な)五角形の作成過程。ロールモデルにしたい“部分”がある家族以外の人物に初めて出会ったのかもしれない。
 自分には兄はいないが、部活顧問や担当教師は、ほぼ兄的存在だった。端的に「マネしたくなる存在」である。自分のできないことができる、知らないことを知っている、ワクワクする世界を教えてくれる・・・。
 弟が二人いて、従兄弟も全て年下である。大抵、先輩よりも後輩と仲が良い。つまり、身近にいる人間はほとんど同年代を除くと年下が多かった。(今でもそうである。)しかし、そんな自分だからこそ、当時は、新鮮な気持ちを味わうことができた。具体的には、顧問からは①組織での立ち振る舞い方、②テニスの技術、③信頼の作り方、教師からは①「誰も口にしないこと」に目を向ける考え方、②長所をとことん生かす生き方、③好奇心の具現化、等である。

⑤22〜現在
 学生生活での友人たち。仲間。戦友。社会的、精神的、経済的(仮)独立を果たして、気づけば各々がプレイヤーになり、自らの人生を歩む。感覚的には、アニメ各界の主人公で囲まれているイメージ。幼少中高とは毛色が異なる。適度な距離感が、自分にとって心地よい。
 かつて、父が、「小学校より中学、中学より高校、高校より大学の友人が合うもんや」と言っていた。フェーズが上がるにつれ、人間関係は濾過されていくものだ、と。
 その通りだった。玉石混交というわけではないが、やはり種類や価値観が似ている方が心地はいいものである。言わなくても通じ合える(のがいいとは限らないにしても)ラクさ、楽しさ、面白さ。刺激が欲しくなれば、あるいは考えが凝り固まれば、全く生息環境の違う他人と交流すれば良い。
 間違いなく、類は友を呼んだ。学生生活での出会いは一生ものだと思う。

第2「体験」

 原体験のみならず、ただただ強烈、そして儚いイベント。コレがないと今の自分は無い。着実に骨血肉へと消化されたであろう出来事。3選。

常習遅刻期(幼稚園〜中学2年生)
 真面目な生徒だった。ただひとつ遅刻癖以外は。朝が苦手なのではなく、十分な睡眠確保に忠実なだけだった。
 語弊を生まないために言うと、遅刻を善だと思ってはいない。日頃の物流や交通等、パンクチュアリーな恩恵は遅刻人間であったからこそ認識すべきだと思っている。今では遅刻''場面''を無意識に選別できるくらいには進歩した。私の場合、遅刻は「反社会性」というより「*内社会性」の現れといえる。健康に払う注意が人一倍強く、居心地の悪さに敏感なセンサーがこの体験により培われた。

内社会性とは、社会(外界)境界を外側とすると、その内側の自己に働くボディイメージやメンタルケアに関する社会性、と勝手に定義しておく。

出典:自分

テニス部期(中高6年間)
 中高の青春の全て。
 もともと小学校6年間サッカーをしていてそこそこのレベルだったのもあり、中学以降も続けようとしていた。しかし、中学サッカー部の治安の悪さから断念。
 新たにテニスに出会った。1mmも体の動かし方がわからなかったが、悔しさから努力に努力を重ねた。競技として向いてたのもあり、高校からも継続。
 今でもなお人生史において存在感を放っている。テニスは私から切り離せない。つまるところ、(サッカーや器械体操を含め)私はスポーツを軸に生きてきた、とも言える。
 「カラダを動かすことが得意=運動神経がよい」とは、自分の精神と肉体の結びつきが精緻なのである。“この足を伸ばすとリフティングができる”、“ボールをこう弾くと上手くボレーができる”。プレー中にわざわざ言語化はしないが、思っているようにカラダが動いてくれる。例えば、本を一読するだけで内容を理解する人は勉強が得意だと言われるが、それと同じある。
 つまり、カラダの動かし方がわかっている以上、ある競技で自分よりはるかに上手な他人に出会うと、本能的に競いたくなる(こうすれば勝てるのではないかと考えてしまう)のである。もはや表面には出さないものの、人より負けず嫌いなのだろう。

モラトリアム期(大学4年間)
 鍋料理でいうと、ちょうど煮込始めたくらいだろうか。材料がそろって下ごしらえもできたので、あとは火にかけて味(深み)を出していく。
 ところで、いかにも“チンピラ”な見た目の男性が中身も素晴らしく“チンピラ”だった場合、私はどこか物足りなく感じる。裏切りやギャップ、目を引く奥深さはないものか、と。(例えば、実はアフリカを横断したことがあるとか、ある博士号を取得しているとか。)そのため、人と交流する時も、そのような裏切りがないものかと考えるようになってしまった。
 これはひとえに、このモラトリアム期において、やりたいこと、みたいこと/もの、知りたいこと、食べ/飲みたいもの等、言われたまま生きていれば知ることのなかった、あらゆるエリアにアプローチしたからだと思われる。(思えばこれこそが学生の特権なのかもしれない。)
 この世には、想像もつかないほど多様な人/モノ/価値観で溢れかえっていた。そして、「予想通り」であることに、「窮屈さ」を覚えた、とも言える。
 しかし、同時に、無知な自分に幾度となく気付かされた(結局無知でなくなることはなかった)。それでいて、ストックされた自分の経験論から他者の優れた経験値が推し量れてしまうことによる*劣等コンプレックスを抱くようになった。例えば、「頭の回転が早いとはなんたるか」をわかってしまったがゆえに、優秀な人を目の当たりにすると、条件反射で負けず嫌いが*補償として作用するようになった。もっとも、その人には、純粋な尊敬が向けられる。
 ②でいうスポーツによる負けず嫌いと相互作用して、新たに多方面への好奇心からくる上昇志向と活発性が形成されたのはこの時期である。

劣等コンプレックス: 「自分が他人よりも劣っている」という考えにより形成されるもの
補償: 劣等コンプレックスを、努力や代替行為といった、何らかの方法によって克服しようとする心理メカニズム

出典:アドラー『嫌われる勇気』

第3「コンテンツ」

 本(漫画、小説、詩、評論etc.)、映画、ドラマ、アニメ、ゲーム、音楽・・・。割と幅広くコンテンツを消費してきた方だと思う。それゆえに、“どハマり”したものは印象深い。5選。

絵本(消防自動車ジプタ、三匹の山羊のがらがらどん、フレデリック、コーネリアス)
 (あらすじは省略するが)簡潔に学びの共通項を抜き出すならば、
ⅰ鮮やかでリアルな自然色のグラフィック
ⅱ''本当の''「強さ」と「弱さ」
ⅲ等身大の自分を大切にすること
以上の3点である。
 世の中は、権力側(学校、親、会社等)が教えてくれることだけが全てではない。そもそもフォーカスされない、語られない部分がある。自然の色々はすべてが''ホンモノ''で、人間の言葉はむしろ余計だった。私の理想郷が幼少にあるのは、今現在において、言葉に少々疲弊しているのかもしれない。

◎恐竜・いきもの図鑑や『ポケット詩集』も同様の理由(ⅰ〜ⅲ)で好んでいた。

マジック
 12歳の頃にハマり、かれこれ10年以上のお付き合い。カードマジックが特に好き。52枚の組み合わせでほぼ無限に「不思議」を表現できる。作品であり芸術(魔術?)。人に見せるときは、もう1人の自分が頭上からあれこれと指示をしてくれる。話の流れ、組み立て、空気感、緊張と緩和、オチ・・・etc.
 当初は、家族や友人の驚いた反応をただ楽しんでいた。他人のリアクションがいいほど、気持ちよかった。めちゃくちゃ、ウザい顔をしている(らしい)。ただ、おそらく誰よりも驚いて楽しんでいたのは自分であった。誰よりも騙されやすく、誰よりも純粋に“魔法”にハマっていた。
 そんな世界に飛び込んで、もはや切っても切り離せない存在になった。「芸は身を助ける」を実感させてくれた人生の良き同伴者である。

ドラゴンボール
 数々の漫画の中で、紙が擦り切れるほど読んだのはコレ。しかし、教訓や学びが特別あったわけではない。ただひたすらに、戦闘シーンを楽しんでいた。主人公悟空の「強えやつと戦いてえ」というセリフ。負けず嫌いであり、常に最強を求める態度に、私も自身を重ねていた。(とはいえ、ここは漫画の世界ではない。)
 どこまでも本能的で、果てしなく強欲、傲慢な自我をいかにしてコントロールしていくか。いうまでもなく、人生は勝つことよりも負けることの方が多い。
 どんな世界に行こうとも、まず「負けたくない」。勝ち組負け組、インキャ陽キャ、短絡的な二項対立は嫌いだが、完全に無視できない自分もいる。シンプルに、試合をするなら勝ちたいし、受験をするなら受かりたい。そして、その欲求にストレートでありたいのである。

もののけ姫(ジブリ)
 正直この一作品で、私の半分は語ることもできる。主人公アシタカの、純粋かつ愚かな素直さ、健康でしなやかな精神と肉体。自然との共生を掲げる、人間という生き物の浅ましさや厚かましさ。そして、今この瞬間を、どう生きるか。あらゆる人生哲学を、もののけ姫から学んだ。
 初期は、アシタカやサンに、大人になると、ジコボウやエボシに感情移入するようになった。単純に、子どもと大人というよりは、ヒトと人間という括りが正しい。純粋と邪悪というよりは、愚かさと賢さという表現が正しい。
 年齢が進むにつれて、多様な解釈ができるようになり、今でも見る度感動している。もはやバイブルといっても過言ではない。

ポーカー
 学生の後半、まさかコレほどまでハマるゲームに出会えるとは思わなかった。たった2枚のカードと、場の5枚。どれだけ多くても7枚の組み合わせで、無限の可能性と期待値に向き合う。人の心理に触れるという点では、マジックとの相性もよかった。例えば、相手のプレーを論理的に考えると、ウソ(ブラフ)を見抜くことができる。
 小学生の頃、スポーツと並行してゲームも大好きだったが、中学以降はご無沙汰だった。そんな中、たまたま大学後半のある時期、友人との一戦からのめり込んでしまった。意味もわからない言葉が飛び交う動画を、毎日見ては、吸収していった。好きこそものの上手なれではないが、あっという間に上達し、気づけば友人全員に布教していた。
 ポーカーにおいて明確な“答え”はない。不確実な世界で、いかにして“合理的な選択をとり続けられる”か。大局的な視点を涵養するきっかけになった。「長く勝つ」とは何か。「50%」という数字の見え方。得たものは多い。
 ちなみに、「ギャンブル」は苦手で、いまだに競馬競輪パチンコ(他)にはハマる気配がない。

第4 おわりに

 以上が、現時点での、「縁」の要約である。
 学部3年次の頃、とある一般教養の最終レポートで、「生命体の存する地球のような惑星を造るなら、何が最も重要な要素であると考えるか」という問題が出された。その時私は、「太陽」や「空気組成」、「水」ではなく、「運」と解答した。人の導き出す数字や物質はあくまで指標でしかなく、真円や完全な直線が存在しないように、再現可能性は限りなく0に近いと考えたからだ。縁も同じく再現性はない。
 つまるところ、縁も運も、結果論でしか語ることができない。だからこそ、過去と現在を知るには最適な概念である。一方で、不確実だからこその未来にとことんワクワクできるのだ。


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