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子どもを育てることへの恐怖を考察する

SOPH 代表のわたし。
4年前、待望の第 1 子を授かって、子どもを育て始めてからずっと不思議に思っていました。

わたし自身 "愛されて育ってきたはずだ" と認識してきた。
なのになぜ、
"自分が今度は加害者になってしまうかもしれない" "わたしの振る舞いが子どもに害悪となってしまうかもしれない" 
ひたひたと心を満たす感情がここに存在するんだろう。

子どもを愛すれば愛するほど、幸せにしたいと望めば望むほど、すさまじい恐怖感がすぐそこにある。それも心の底から冷え込むような、深淵を覗くようなキレッキレのやつ。

待て待て待て、いやいやいや、加害者って。害悪って。
なんでだ?"愛されて育ってきた" 自己認識、どこ行った?
ほら、あれもこれも、与えられた。
ほらあれもこれも、してもらったでしょう?
そしてだから、あなたの今があるんでしょう?

でも…
わたしは確かにちょっと生きづらい。
おやおや、これはもしかしてパンドラの箱の蓋が開いてしまうのかもしれないぞ。

興味本位で目を凝らしてみたら、トリプルP を学ぶ過程でその理由に気づいてしまった。
子どもだった頃、確かに不足していたものがありました。
己の恐怖を見つめてみた、今回はそんな話。



"はっ!!わたしは親から愛されてなかったんだ!" とかそういう話ではなく、教育環境など十分なものを与えてもらっていたのは事実なのに、子どもだったわたしの自己認識がこうなってしまったという点。

いざ親の立場になって、その時の自分の最善を尽くして子どもを育てた結果、子どもの自己認識が今のわたしのように "愛されて育ったはずだ!" と無理してる感じになったら、あまりにも切なすぎないか?と思った。
逆説的だけど、"あれもしてもらった、これもしてもらった" と理由を探して、だから "愛されて育ったはずだ" と結論付ける思考回路になっている自分が、とても切ない。客観的に、哀れだと思う。
なにより将来、手塩にかけた子どもの自己認識が今のわたしのあり様だったらつらすぎる…わたしが仮に70過ぎくらいで知ってしまったら遠い目をして彼岸を眺めてしまうだろう (想像したら実母も実父もカワイソス)

ただ、返す返すも、トリプルP を学んでいることで "同じ轍は踏まないで行けそう" そんな希望が持てています。

虐待 トリプルP の捉え方

トリプル P の本には "虐待" について以下のような記述がされています。

子どもへの虐待は 「子どもへの積極的な行為 (作為)」と子どもが育つ過程において 「子どものニーズを満たさないこと (不作為)」の 2 つに大別されます。欧米では前者を 「アビューズ (abuse)」といい、後者を 「ネグレクト (neglect)」と表現しています。
~~ 中略 ~~
また、親がよかれと思って信念をもってしつけをしても、それが虐待と判断されることもあります。

トリプルP 改訂第2版 ~前向き子育て17の技術 p116

これを読んだとき、まず最初のきゅぴーん!が来た。

子育てにおける "不作為" 。
"良かれと思って" や、"意図せず" の行いも場合によっては虐待になるのか。
怖っ!大丈夫かな、わたし、やってないかな。大丈夫だとは思うけど、この先も大丈夫であり続けられるのか…?

でも、あぁなるほど。だから教育虐待とかが "良かれと思って" からの派生で起こるのか。ボタンのかけ違いの切なさよ。

読み進めるとこうも書いてあった。

また、親に子どもへの愛情が見られる場合でも、親に育児の能力や育児の知識が不足している場合、また子供を養育する心のゆとりがない場合にネグレクトに至ってしまうこともあります。繰り返しになりますが、「不適切な関わり」にしっかり気づき、正しく認識することは、「子ども、そして親を援助する」 きっかけになるということで、私たちが目的とすることは、「親を罰する、告発する」 ことではありません。

トリプルP 改訂第2版 ~前向き子育て17の技術 p116

うん、 わたしには "育児の知識" が不足している。
柴犬さんを家に迎えたときにはドッグトレーナーになったし、猫様を迎えるときも何冊も本を読んだ。ペット栄養管理士の資格も取った。

でも、子育てに関しては完全に丸腰だ。自分が親から育てられた、その過程で体験したことしか持ってない。
わたしには "育児の知識" が不足している。だから、"良かれと思って" のことが子どもの害になるかもしれないと恐怖感を抱いて当たり前だ。
育児の知識を得るために、いま、トリプル P を学んでいるんだな。

子どものニーズを満たさないこと = 不作為の虐待になる

でもそもそも、子どものニーズって、何なんだろう?

安定した愛着は子どもが望む 3 つのことを満たすことで形成されます。
「愛してほしい (愛情)」「見てほしい、聞いてほしい、分かってほしい、困ったら手を差し伸べてほしい(関心)」「認めてほしい(前向きな注目)」の 3 つです。これらが満たされて、子どもは自分に対する安心感と他人に対する信頼感を得ることができ、それが非認知能力を育てるための土台となるのです。
~~ 中略 ~~
子どもは、自分に 「愛情」「関心」「前向きな注目」を与える人と愛着を形成し、安心感と信頼感を持つことができます。

トリプルP 改訂第2版 ~前向き子育て17の技術 p131-132

ここでまたきゅっぴーん!とした。
あぁ、わたしはこの "見てほしい、聞いてほしい、分かってほしい、困ったら手を差し伸べてほしい" を親から十分に得ることができなかったのか。

物理的に環境的には十分なものを与えられたけど、"見てもらった、聞いてもらった、分かってもらった、本当に困ったときに手を差し伸べてもらった" 実感がほとんどない。

"さあ整えましたよ。これで物理的に、環境的にあなたは持っているでしょう?だから自分で何とかしなさいな"
そう育てられた。結果、自分で何とか出来てしまう力を得たけれど、心が埋まってない感覚は確かにある。

わたしを育てた彼らはきっと、それが愛情だと、最善だと思っていたのだろう。トリプルP のような考え方を知らなかったんだろう。しゃーなし!
(わたしも今更 "親を罰する、告発する" をしたいわけではない)

でも、なるほどなるほど、納得。だからわたしと彼らの間には愛着が形成できなかったのか。

そして、"関心"で満たされた経験が少ないから、それを子どもに与える良い方法がわたしにはよくわからない。満たし方がわからない。
だから直感的に、このままだと子どもを害するかもしれないという恐怖を持ったんだろう。

恐怖、グッジョブ。キレッキレの恐怖、まじでありがとう。おかげで同じ轍を踏まずに済みそうよ。

不作為の虐待をしないために

トリプル P はまさに愛着形成を促進することに重点を置いたペアレントトレーニングです

トリプルP 改訂第2版 ~前向き子育て17の技術 p133

子どもが望む 3 つのこと、そこに対してトリプル P では対応する技術を割り当ててくれています。
それぞれに、具体的に "何をすればいいか" まで落とし込んでくれている。
だから、わたしにも実行できる。

愛情

  • 愛情を表現する

関心

  • 子どもと良質な時を過ごす

  • 子どもと話す

  • 子どもに注目を与える

  • 時をとらえて教える

  • アスク・セイ・ドゥを使う

前向きな注目

  • 子どもをほめる

  • 子どもに注目を与える

それぞれ具体的に何をすればよいかは割愛。
気になるかたはこちらや

こちらをどうぞ

個人的には "子どもと良質な時を過ごす"  方法が目から鱗でした。"関心"てこういうことかとはっとした。

第 2 子出産後、まだトリプル P を知らなかったとき、上の子の心のざわざわ対策で "ママとの時間" を意識的に取っていた。でも、なんだか全然埋まらない、しっくり来ていない感覚がお互いあって、まるで樹海。

トリプル P の方法を実践したら、嘘のようにしっくり来て、"なるほど…!!" と思った経験がありました。
そして学びと共に、心にある恐怖感は拭われて癒されていく感覚もあります。

無条件に "愛されていたな" そういう実感

前述の通りで、わたしは持ってる!とは言えない。愛されていたと思う理由を並べないといけない。

でも、子どものニーズを親が適切に、妥当に満たすことができたら、彼らは "その実感持ってるよ" と自然に思えるのだろうか。
結果として非認知能力を存分に獲得して、自分の思うように生きられるのかな。それはどんなに素敵だろうか。

"こうなってほしい" は親のエゴと感じてしまう。
でも、"幸せな人生を歩んでほしい" は心からの願いです。

わたしの親も、きっと思いは同じだったんだろう。


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