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【yama】そこに物語が生まれた【ACIDMAN】

yamaという歌手はかつて「完璧に歌えていればそれでよかったと思っていた」と語っていた。


yamaのバズったキッカケであるくじら氏作曲「春を告げる」。
人には目もくれずさすらう風のような透明感を纏った声、完璧な音程、リズム。
この透き通ったざらつき感がなんとも癖になる声である。
それ以前に投稿されたカバー曲も聴けばわかるようにyamaはとても精密な歌手という印象があった。

そのyamaの生の想いを聞いたのはいつだったか、六本木で開催されたベテランバンドACIDMANとのツーマンライブだった。

恥ずかしながらACIDMANの曲はツーマンライブに行く前にどれどれ…と初めて聴いたのだが、深く優しい、宇宙のような広がりを持つ声の大木伸夫氏のボーカルと美しい曲の世界観にあっという間に引き込まれた。


ツーマンライブ当日、入口で「ACIDMANとyama、どちらを観に来たか」とスタッフに問われたときはまるで人生最大の2択を迫られているようだった。

人生にはどちらか一方だけを選ばなければならない時がある

5秒ほど本気で悩み、もともとはyamaきっかけで来たので「や、yamaです…!」と長蛇の列とスタッフさんの圧に押されて答えたのを覚えている。(せめて事前にオンラインで選ばせてくれんか…ッ泣)

その時のライブは先輩であるACIDMANが先陣を切り花を持たせ、yamaが大先輩の背を追って満を持して出てくるといった形だった。

ACIDMANの出番は半分だったが、帰りにCDも買ってしまうくらいには小粋なMCや世界観を堪能した。
MCの際、ギターボーカルの大木氏はyamaに対して

「こんな歳の離れた先輩に「対バンしてください!」と恐れを見せず憧れを持ってくれて挑んできた子は初めて」
「どんな子かと思って聴いたらすごくきれいな声で、お願いされてつい楽曲提供もしちゃった笑」

といったようなポジティブな印象を語っていた。
一見、髭のちょいとコワモテな印象のおじさまだが、その優しさと器の大きさがうかがえた。

yamaのライブは、バンド&同期スタイルで箱との相性がすこぶる良かった気がする。
PCやスマホで聴いていた精密な歌声は変わりなくといった感じで、First takeでも披露された有名曲らを中心に披露していく。
ダンスや動きはほぼなく、いつものフードパーカーに片手ポケットインスタイル。
しかし激しめの曲になるとぴょんぴょん跳ねたりステップを踏んだり、かわいらしい一面もあった。

そしてMC。
私はyamaの話・考えというものはラジオ番組くらいでしか知らなかったから、まだまだ不安で模索成長中!というようなざっくりとした認識しかなかったのだが、このライブMCでyamaの本心のほんの一部が知れたような気がした。

yamaのライブはかつて観客から批判が起きるほど歌だけに特化したものだったそうだ。(片手ポケットインスタイル)

これについて私は、当時は歌だけがyamaの武器にしたいものであり、歌手とはそうあって然るべきだと思っていたのではないかと勝手に解釈していた。

令和に生きる若者はそうではない人が大半だと思うのだが、「歌手として踊ったら負け」「アイドル化してしまう」みたいな謎の恐怖感や固定観念を持つ人は今でも少なからずいると思う。

「歌手」なのか「アイドル」なのか「アーティスト」なのか。

「歌う人」をどう呼ぶかという問題について、かつて超大物シンガーソングライターの「アーティスト?(笑)いや”歌手”でしょ」といった旨の発言をTVで見た私(平成生まれ)は、それを真に受けて「歌手を”アーティスト”と呼ぶなんておかしいんだ。歌手がいわゆる”歌い手”や”アイドル”になったらおしまいだ」なんて石のように硬い頭で考えていた10代もあった。

詩人である歌手たちが言葉一つにこだわるのは当然なのだが、個人的には、肩書きはわかりやすいものだが本質的には「自分をどう名乗るか」「それを客がどう受け止めるか」ではないかと今は思っている。

yamaが果たしてそういう思考に影響されていたかはわからないが、そんなことも影響したのかなあなんて浅慮を当時は巡らせたりもした。

だがyamaはそのMCで

実際に生身でライブを行うようになり、様々な先輩アーティストに触れ、「お客さんを楽しませる」という考えがやっと生まれた

というような事を言っていた。

MCを聴いているとyamaという人は思ったよりも自己肯定感が低く、くだらない肩書きのことを気にかけるよりももっと切羽詰まった状態にいたのだろうと思った。

一人で歌っていたときはただ歌だけが拠り所であって、それ以外は自然と遮断されてきただけなのだろうなと。

他人の過去や気持ちを推し量るなんてことはおこがましいし叶うことではないとは思うのだが、私はそう感じた。

そのライブのMCで、yamaは泣いていた。

限られた時間のなか、凍えた風の様な声でゆっくりと紡がれる言葉が、精密な歌声以上に会場にいた人々に響いたのが分かった。

私の前方に座っていたACIDMANのTシャツに身を包んだ男女二人が、それまではニコニコおしゃべりをしていたが、yamaの言葉にだんだんと口を噤み、耳を傾けていくシーンが脳に焼き付いている。

ひとの言葉を真意として実直に受け止められるかどうかでいうと、私はかなり懐疑的な方だと思う。
それはかつて自分自身が真意をうまく話せなかった人間だからかもしれないのだが、不安に揺れながらも歩み進まんと踏ん張るyamaの言葉は、そんな渇いた私のこころに一輪の花を添えてくれたような心地がした。

「がんばっていくので、どうぞよろしくお願いします」

と涙声を必死に抑えながら頭を下げるyamaの声に、目頭がじんわりと熱くなったのを覚えている。

そして最後に歌われたACIDMAN提供のyama歌唱曲 『世界は美しいはずなんだ』


普段の画面越しの冷静かつ精密な歌声とは一線を画した熱量の歌声だった。

世界が本当に美しいかどうかはどうでもいい。
世界を美しいと信じられる心が、世界の色を変えるんだ。

そんな熱さを一人胸に抱え、その日は電車に乗った。

こんな出来事からかなり経って、近日発表されたTVアニメ「SPY×FAMILY」のEDテーマ『色彩』MV。

なんとあの、不動のyamaが、こんなダンスMVを出してくるなんて…!!

本当に全く想像できなかったことだった。

あれから足掻いてもがいて自分の不動の殻を破り、新たな自分を生みだしたのだろうか。

想いを実現できるyamaさんに勇気を頂きました。

本当はこのMVで「yamaが踊ってる!!!」という驚きと経緯をちょこっと書こうと思ったのですがつらつら書いてたらもう朝の10時。
今日も一日、生きていこう。



「真珠の欠片だって無価値、そこに物語がなければ」





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