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統整的理念としてのカントの「世界共和国」——柄谷行人『世界史の構造』を読む

つぎに重要なのは、カントが、世界史が「目的の国」ないし「世界共和国」にいたるということを「理念」として見たことだ。カントの言語体系では、理念は次のことを意味する。第一に、理念は仮象である。ただ、仮象にも二つの種類があり、一つは感性によるもので、ゆえに理性によって訂正できる。もう一つは、理性が生み出すような仮象であり、これは理性によっては正せない。理性こそこのような仮象を必要とするからだ。彼はそれを超越論的仮象と呼んだ。(中略)
それに関連して重要なのは、構成的理念と統整的理念の区別、または理性の構成的使用と統整的使用の区別である。カントはこの区別を説明するために、数学における比例と哲学における類推(アナロジー)の違いを例にあげている。数学では、三つの項が与えられれば、第四項は確定される。これが構成的である。一方、類推においては、第四項をアプリオリに導き出すことができない。しかし、類推によって、その第四項に当たるものを経験中に探索するための指標(index)が与えられる。たとえば、これまで歴史的にこうであったからといって、今後もそうだとはいえない。しかし、そうであろうと仮定して対処することが、統整的(regulative)な理性の使用である。これはあくまで仮定であるが、このような指標をもって進むのと、ただやみくもに進むのとは異なる。
わかりやすくいうと、理性を構成的に使用するとは、ジャコバン主義者(ロベスピエール)が典型的であるように、理性にもとづいて社会を暴力的に作り変えるような場合を意味する。それに対して、理性を統整的に使用するとは、無限に遠いものであろうと、人が指標に近づこうと務めるような場合を意味する。たとえば、カントがいう世界共和国は、それに向かって人々が漸進すべき指標としての、統整的理念なのである。もちろん、それは仮象であるが、しかし、それなくしてはやっていけないという意味で、超越論的な仮象である。統整的理念の声は小さい。しかし、その声は、現実に実現されるまでは、けっしてやまないのである。
「世界共和国」とは交換様式Dが実現されるような社会である。それが完全に実現されることはない。しかし、それは、われわれが徐々に近づくべき指標としてあり続ける。その意味で、世界共和国は統整的理念なのである。

柄谷行人『世界史の構造』岩波書店, 2015. p.372-373.

柄谷行人の『世界史の構造』(2010年)は、彼の「交換様式」の理論からみた世界史の成り立ち、国家の起源、そして来たるべき世界へのアソシーエショニズムの展望を述べたものである。カントとマルクスを論じた『トランスクリティーク』と、交換様式の理論から新しいアソシーショニズムについて述べた『ニュー・アソシエーショニスト宣言』をつなぐような位置付けの書籍となっている。それぞれ、過去記事があるので参照されたい(『トランスクリティーク』『ニュー・アソシエーショニスト宣言』)。

引用したのは第3部 第4章「アソシエーショニズム」からである。柄谷は「資本=ネーション=国家」が三位一体となって成立した近代社会においては、それを乗り越えるのが極めて難しいことを論ずる。「資本」とは資本主義経済におけるそれであり、「ネーション」とは氏族社会のような「想像された共同体」としてのあり方、そして「国家」とは支配・統治体制としてのあり方をさす。これらはいずれも、「交換様式」として考えることができる。例えば、氏族社会(ネーション)においては互酬という交換様式があり(交換様式A)、国家においては支配と安全の保障という交換がある(交換様式B)。資本においては、商品と貨幣が交換される(交換様式C)。そしてこれらは、複数がつねに混合して存在し、社会構成体をつくる。柄谷は、共産主義国家が崩壊した今、資本主義経済が勝利したのではなく、「資本=ネーション=国家」としての社会構成体が完成されたとみる。それから抜け出すことは、われわれにとって不可能なようにもみえる。

柄谷はそれらを超克するあり方として、交換様式Dを考える。これは交換様式A(互酬性の社会)を高次元で回復させようとする動きである。柄谷はフロイトの「抑圧されたものの回帰」の類推でこれを考えている。交換様式Dは、実はすでに存在する。それが「普遍宗教」である。しかし、普遍宗教のみならず、国家経済体制としてもその可能性が探索されたものが「共産主義」であった。しかし、共産主義国家は失敗に終わった。なぜそれが失敗に終わったのかといえば、それを計画的に意識的に実行しようとしたからであると柄谷はみる。これを、カントの哲学概念で説明すると、理念を「構成的」に使用したからだとみている。しかし、カントの『永遠平和のために』で述べられている「世界共和国」は、構成的理念としてではなく、「統整的理念」としてみるべきである、と柄谷は論じる

構成的理念と統整的理念の違いは、数学の比例と、哲学の類推(アナロジー)の違いであるとカントは説明している。比例関係は、三つの項が決まれば第四項は確定する。しかし、哲学における類推(アナロジー)は、第四項は一意的に決まらない(そして現実世界では常にそうである)。しかし、哲学的な類推によって、第四項に当たるものを経験中に探索するための指標(index)が与えられる。これが、理念の統整的(regulative)な使用である。カントのいう「永遠平和」を実現するための「世界共和国」は、まず統整的理念として論じられていることを柄谷は確認する。交換様式Dは、統整的理念として考えていく必要があり、それを必然の未来(完成されるべき世界革命と共産主義社会)から遡って計画的に実行していくことは不可能なのである。そして、マルクスも実は、そうした「事後」の視点にたっていたのではなく、カント的に「事前」の視点にたっていたと柄谷は考えている。

カントが言った「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ということは、交換様式Dとしての社会にもあてはまると柄谷はいう。カントは「目的の国」という言葉でそれを表現した(そして、それはマルクスが「共産主義」という言葉で表現しようよしたものと同じであった)。カントにおける道徳性は、善悪ではなく、自由(自発性)の問題である。他者を目的として扱うとは、他者を自由な存在として扱うということである。そして、道徳性の契機は、交換様式の中に含まれている(それを、経済の外の問題として扱う必要はない)。つまり、マルクスが実現しようとした「共産主義」も、カントが述べた「目的の国」(あるいは「世界共和国」)も、交換様式Dの実現にほかならないのであり、それはまさに経済的=道徳的な過程である、と柄谷はいうのである。




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