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金子文子の「私の仕事」の思想——ブレイディみかこ『女たちのテロル』より

文子は、この文章の中で、彼女が生涯を通じて探し続けてきた「私の仕事」についても、それはミッションとか呼ばれるものとは別物なんだよと宣言した。

「したがって私は人間の上に、いな自分の上に「天職」とか「使命」とかいうものを認めません。つまり「自分は今こうやりたいからこうやる」これが私にとって自分の行為すべく唯一の法則であり、命令です。……」

……ただ、私が知りたいのは「いま自分は何を考えているのか」ということだけだ。自分はいまどうしたいのか、自分はひょっとすると他人や社会や権力やわけのわからない空気による「こうあらねばならぬ」に動かされているのではないか、私はほんとうに自分の頭と足で、それのみで歩くことをしているだろうか、というそのことだけが私にとっては重要なのだと文子は言っているのだ。

ブレイディみかこ『女たちのテロル』岩波書店, 2019. p.188-189.

前回の記事につづき、金子文子を取り上げる。金子文子の思想は、無政府主義(アナキズム)や虚無主義(ニヒリズム)に近いと言われる。しかし、文子の思想を深く知れば知るほど、既存の主義や思想の枠にとらわれていないことがわかる。それが、ブレイディみかこさんの著書『女たちのテロル』を読むとよく理解される。この本では、およそ100年前に国家や制度に対して立ち向かった女性たち3人をとりあげている。大正期のアナキスト金子文子に加えて、イギリスで女性参政権を求めて戦ったエミリー・デイヴィソン、アイルランド独立闘争に加担した革命家マーガレット・スキニバーである。なかでも、金子文子に関する記述が中心となっており、最も迫力をもって書かれている。

文子は幼少期からの過酷な人生経験から、「自分が自分自身を生きる」ということ、誰のためでもなく、誰に依存するのでもなく、生きる主権は自分にあるのだという思想を育んでいく。そして思想や宗教といった「欺瞞」にもとらわれずに生きることを、「外力に左右されない裸体で生きるところに人性としての善美がある」と述べている。社会主義が掲げる理想も、文子にとってみれば、既存の権力を新たな権力で塗り替えるだけの欺瞞のように思えたし、宗教が語る愛もときに自己保存的な独りよがりの概念に思えることがあった。外力に左右されずに「裸体で生きる」という思想を文子は、血肉を通して学んだのである。

文子は社会主義を冷ややかな目で見ていた。「理想的な社会をつくる」という理想主義自体を、冷ややかに見ていた。人間というのはそんなに期待できるものではないし、容易にそれは権威主義化して、また人間を抑圧すると感じていた。その考え方はニヒリズムに近い。しかし、気の合う仲間たちと一緒に自分たちがいいと思うインディペンデントな生活を送るのが一番可能性のある生き方だというアナキズムの思想には共鳴していた。

文子は、そのような生活の実現を、自分たちの手元に近いところで、自分自身の生において可能にしたいと考えていた。文子はそれを「私達自身の真の生活」と呼んでいる。文子は、人間にはこれこそが自分の真の仕事だというものがあり得ると思っていた。それをすることによって初めて人間の生活は人間自身から乖離することなく、人間自身の存在と共にあることができる。その仕事が成就しようとしまいと関係ない。そして、その仕事というのは「天職」とか「使命」とも違うと考えていた。もっと人間の生にとって根源的なこと。今自分は何がしたいのか、今自分は何を考えているのか。その自分のしたいことや考えていることは、まったく「外力」によらないものか。つまり、他人の考えや社会の要請や、思い込まされていることではない、まったき自由にもとづく自分自身の意志か。それが、文子にとっての「私の仕事」であり、生きる上での唯一の法則であったのだ。

こうしてみると、文子の考えは実存主義哲学にも近いものがある。文子の考える「私自身の仕事」とは、権力打倒とか社会変革とかそういったものではなく、自分自身がどう生きるかということと直結していた。ブレイディみかこさんは「この若い娘は運動家ではなく、哲学者だったのだ」と書いている。本当にそのとおりだと思う。


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