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食による差別——辺見庸氏『もの食う人びと』を読む

「食」ほどすてきな快楽はなく、しかし、容易に差別の端緒になる営みもない。日本ではそうだった。在日中国人、朝鮮人、沖縄出身者を、「食」の違いで差別した歴史がある。ドイツのトルコ人差別にも、なにか似たものが私には見えるのだ。

辺見庸『もの食う人びと』角川文庫, 1997. p.104.


辺見庸(へんみ よう、1944 - )氏は、日本の小説家、ジャーナリスト、詩人。元共同通信社記者。1991年、『文學界』(文藝春秋)1991年5月号「自動起床装置」で第105回芥川賞受賞。『赤い橋の下のぬるい水』(1992年)、『水の透視画法』(2011年)など。『もの食う人びと』(1994年)では、講談社ノンフィクション賞を受賞している。

本書『もの食う人びと』は、人は今、何をどう食べているのか、どれほど食えないのかをテーマに、世界中の現場に足を運んで、共に食べ、現地の人びとにインタビューをしたルポルタージュである。紛争と飢餓線上の風景に入り込み、ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、辺見氏は実際に食べ、それを言葉にする。

引用したのは、「食とネオナチ」という文章から。ベルリンに取材し、1990年代前半のドイツのネオナチとトルコ人差別について、ドナー・ケバブの食を通して考察している。東西ドイツ統一後、トルコ人によるケバブの店が急増する。それとネオナチの台頭が並行していた。背景には、ドイツ企業を統一後に解雇されたトルコ人がケバブ店を開業していたことがある。ネオナチによる外国人排斥が増え、トルコ人ら外国人住宅への放火による死者も出た。

「ドナー(ケバブ)の歴史は、ドイツに適用しようとしてきたトルコ人の辛い歴史そのもの」とあるトルコ人が語る。そして、食というものは国境を越える快楽であると同時に、容易に差別の端緒にもなるものであると辺見氏は語る。トルコ人に取材をすると「おまえは臭い」「野蛮な羊殺しめ」と言われ、いじめられたという経験談をいくつも耳にする。「食べるというのは、それぞれの民族が、祖先や文化の記憶を味になぞることでもあるから、「食」にかかわる差別は深く心を傷つける」という。

そして、日本でも同じような差別の歴史があるという。在日中国人、在日コリアン、沖縄出身者を「食」で差別してきた歴史が日本にもある。日本にも、ドイツのように多くの外国人が住んでいる。もし、今後失業率が高まり、社会が大きく不安定になったときに、ドイツと同じような現象がおきないか。ネオナチに似た民族排外主義が高まらないか、と辺見氏は懸念する。そして、それは実際に起きたと言えるだろう。2000年代末からの、コリアンタウンでのヘイトスピーチなどがそれである。これが、食文化が盛んな新大久保という町で起きたということも象徴的である。辺見氏の警鐘は、その後の日本社会におきることを見事に言い当てていた。

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