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「回心」の宗教心理学——ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読む

最後の瞬間になって自己放棄がなぜそれほど不可欠なのであろうか、その理由についてスターバック博士は一つの面白い、そして私には真実であると思われる——このように図式的な考え方が真実であると言いうるかぎりにおいてであるが——説明をしている。まず、回心しかかっている人の心のなかには二つのものがある。第一は、現在の状態が不完全であり、間違っているという考え、逃れようと熱望される「罪」の意識であり、そして第二は、到達したいとあこがれられる積極的な理想である。ところで、私たちたいていの人間にあって、私たちの現在の状態が間違っているという感じは、私たちが目ざすことのできるいかなる積極的な理想の観念よりも、はるかにはっきりした意識である。事実、大多数の場合において、「罪」がほとんど独占的に注意を奪ってしまい、したがって、回心とは「義に向かって努力する過程というよりはむしろ罪から脱け出ようと苦闘する過程」である。

W ・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(上)』桝田啓三郎訳, 岩波文庫, 1969. p.316.(太字は原著では傍点)

ウィリアム・ジェームズ(William James、1842 - 1910)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』や、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。

ジェームズの代表作『宗教的経験の諸相』は、科学的な方法による宗教心理学の最初の労作として不朽の名を残す名著である。ジェームズが60歳のとき、1902年に刊行されている。彼は個人の宗教的要求と宗教的経験を重視した独自の宗教観に立って、見えないものの存在に対する信仰がもつ心理的特質・宗教的性向を分析している。膨大な資料が用いられ、回心、聖徳、神秘主義などの現象がみごとに究明されている。

ジェームズは「回心(conversion)」と呼ばれる宗教的経験を分析している回心で最も有名な話は、初期キリスト教の使徒パウロの例であろう。彼は、はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。彼は熱心なユダヤ教徒の立場から、始めはキリスト教徒を迫害する側についていた。しかし、ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた。その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。

しかしジェームズはもっと一般的な多くの回心の事例を細かく分析することで、回心の心理学的経験の本質に迫ろうとしている。ジェームズは、回心とは「それまで分裂していて、自分は間違っていて下等であり不幸であると意識していた自己が、宗教的な実在者をしっかりとつかまえた結果、統一されて、自分は正しくて優れており幸福であると意識するようになる、緩急さまざまな過程」だと述べる。あるいは、こうした感情的関心の焦点の大きな変化が宗教的なものであり、ことにそれが「危機(crisis)」によって突如として起こる場合には、それが「回心」と呼ばれるとしている。

ジェームズは感情的な動機、ことにそのはげしい種類のものは、心の再編成を促すきわめて大きな力をもっており、愛、嫉妬、罪悪感、恐怖、悔恨、憤怒などが、突然にそして爆発的に人をおそうことは、誰でも知っていると述べる。特にそれは人格が変性する青年期に起きやすいことを指摘する。しかし青年期に起きるとは限らない「回心」の現象は、青年期の経験に比べてはるかに長く強烈であり、また、不眠症や食欲喪失などの身体的な付随現象を伴いやすいと述べる。

ジェームズは「回心」現象の特徴の一つに「自己放棄」という心理があることを指摘する。彼は「(回心の)最後の一歩そのものは、意志以外の力にゆだねられねばならず、意志活動の助けなしに成しとげられざるを得ないように思われる。言いかえれば、その場合には、どうしても自己放棄が必要になってくる」と述べる。そしてこの「自己放棄」、いわば自力による意識的努力の放棄がなぜ回心にとって不可欠なのか、その心理学的理由を二つ挙げる。一つは「罪悪感」(現在の状態が間違っているという意識)であり、もう一つが「理想」(到達すべき状態への憧れ)であるという。そして、回心とは理想(正しい状態)に向かって漸進的に努力する過程というよりは、むしろ罪(間違った状態)から抜け出ようと苦闘する過程であり、それが自己放棄を伴うときに瞬間的に起こる心理学的現象であると述べる。

この「自己放棄」による回心は、仏教で言えば、「他力」の思想と合い通じるところがある。「他力」あるいは「他力本願」とは、自己努力(自力)を一旦放棄し、仏や菩薩の救いに身をゆだねようとすることを指す。親鸞は『教行信証』のなかで「他力といふは如来の本願力なり」と述べている。つまり、自力によるあさはかな努力を放棄するときに、阿弥陀仏による大きな救いが訪れるということである。このことを仏教では「他力」と呼ぶが、ジェームズが分析した(主にキリスト教的背景での)「回心」における「自己放棄」と非常に類似性がある。洋の東西を問わず、宗教的経験には共通する特徴があるということなのだろう。

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