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経験論は私たちの知覚から意味を失わせる——メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む

経験論はわれわれから、〈文化的世界〉または〈人間的世界〉というものを匿してしまっているが、にもかかわらず、ここでこそ実はわれわれの生活のほとんどすべてが営まれているのだ。⋯⋯(経験論にとっては)或る風景なり対象なり身体なりの感性的相貌のなかには、それがはじめから〈陽気な〉または〈物悲しい〉、〈快活な〉または〈陰鬱な〉、〈優雅な〉または〈粗野な〉風貌をもっているようにさせるのは何一つない、ということになる。われわれの知覚しているものを、われわれの感覚器官に働きかけて来る初刺戟の物理的ならびに化学的諸特性によって一旦規定してしまうと、経験論は知覚から、私が或る顔のうえに読みとっているはずの怒りとか苦痛とかを排除してしまうし、⋯⋯もはや客観的精神なぞは存在し得なくなるわけであって、すなわち精神生活は、ただの内観だけに委ねられる孤立した個々の意識のなかに引っ込められて、現に見られるように、私が共に議論し共に生きている人々によって構成された人間的空間のなかに、私の労働の場や私の幸福の場のなかに展開されてゆくことは、なくなってしまうのである。

モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学1』みすず書房, 1967. p.61.

メルロ=ポンティの『知覚の現象学1』第1巻、序論の第2節「〈連合〉なるもの、および〈追憶の投射〉なるもの」からの引用である。『知覚の現象学』の序文についての過去記事も参照のこと。

知覚は、一般的には五感や運動感覚などから入力される情報に基づいて総合的に周囲や対象について知ること、である。この考え方では、個々の感覚、すなわち部分が原初的なものであることになる。これに対して、メルロ=ポンティは知覚の対象は「ゲシュタルト」であるという「ゲシュタルト(Gestalt)」とはドイツ語で「形態、姿、全体性」を意味する。メルロ=ポンティによれば、私たちがその現れが何であるか(例えば顔や太陽や船)がまずはわかる(知覚する)という点で、ゲシュタルト的な全体性を捉えているのであり、諸感覚はこの全体が捉えられたあとから析出されると考える。

ここでは「地」と「図」という考え方が元になる。私たちは、例えば「顔」という全体をまずは見て取ってしまっているのであって、顔の部分である〈頭頂部〉〈額〉〈鼻梁〉〈口〉〈顎〉〈首〉といった各部分を認識したうえで総合しているのではない。全体をまずは〈顔〉として見ることと、各部分が鼻とか口とかいう〈意味〉をもつこととが、一挙に生じている、とメルロ=ポンティは言う。「地」と「図」は、私たちに対して一挙に浮かび上がって現れている。「図」という部分だけを取り出して私たちが知覚することはない。それは「地」の上の「図」という全体的な布置において初めて意味をもっているのである。

この第1巻序論第2節では、イギリス経験論、特にデヴィッド・ヒュームの「観念連合」の考え方が批判されている。ヒュームは、経験論の立場から人間の認識の仕組みを説明した。彼は、人間の心に浮かぶ「観念(ideas)」は、経験から得られた印象(impressions)に由来すると考えた。そして、観念は次の3つの方法によって「連合(association)」されるとした。
1つは「類似性」であり、ある観念が別の観念と似ている場合(例:白い雪と白い紙)。2つ目は「接近性」であり、時間や空間の近さによって関連づけられる場合(例:ある建物と隣の建物)。3つ目は「因果性」であり、ある観念が別の観念の原因または結果であると見なされる場合である(例:火と熱)。こうした法則によって、人間は具体的な経験から観念を関連づけ、心の中に〈観念連合〉という抽象的な概念を形成する、とヒュームは考えた。

しかし、このヒュームの経験論は一種の「唯名論」であると言って、メルロ=ポンティはそれを痛烈に批判する。「(経験論では)認識は次々と連なって来る自分の諸対象にたいしてまったく支配力をもたなくなり、精神はまるで計算機のような働きしかせず、自分の得た成果がなぜ真理なのかも弁えないものとなる。感覚の容認する唯一の哲学とは唯名論であって、つまり、意味を混乱した類似という反=意味(contre-sens)にまで、あるいは近接による連合という無=意味(non-sens)にまで還元してしまうこと以外の何ものでもない」と、メルロ=ポンティは述べている。

ちなみに、「唯名論」とは、中世スコラ哲学における「普遍論争」で用いられる用語である。中世哲学においては「普遍(universals)」と呼ばれる概念が実在するかをめぐって議論が展開された。この問題は、存在論や言語哲学、認識論に関連し、特にプラトンやアリストテレスの思想が重要な背景になっている。議論の中心は「一般概念」(例えば「人間性」や「赤さ」)がどのように存在するか、あるいは存在しないかという点である。この論争は大きく実在論(realism)唯名論(nominalism)に分かれる。
「実在論」は、普遍は何らかの形で実在すると主張する立場である。プラトンは、普遍は物理的な世界とは独立した「イデア」の世界に存在するとし、アリストテレスは、普遍は個物(個々の具体的な存在)の中に存在すると考えた。
一方、「唯名論」では、普遍は名前や言葉にすぎず、実在しないと主張する立場である。個々の具体的な存在(個物)だけが実在し、普遍概念は人間が便宜的にまとめて名前をつけたものにすぎないとする。この考えの代表者はロスケリヌスや、オッカムのウィリアムである。

経験論のヒュームも、抽象概念は観念の連合によって形成されるにすぎず、普遍的な「本質」は存在しないと考える。ヒュームによると私たちの認識や言語は個別的な経験や個物から出発する。ヒュームは、抽象概念の形成を「便宜的な観念の連合」によるものと説明する限りで、「唯名論」に近い立場であると考えられるのである。

しかし、メルロ=ポンティは唯名論、つまり経験論の立場に真っ向から反対する。このような考え方に立つと、「知覚されたものの意味とは、理由なく再現しはじめる諸々の映像の布置以外の何ものでもない」こととなり、「精神はまるで計算機のような働きしかせず、自分の得た成果がなぜ真理なのかも弁えないものとなる」とメルロ=ポンティは主張する。

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