イソノミア(無支配)の危機が生み出したものとしての哲学——柄谷行人『哲学の起源』を読む
柄谷行人による『哲学の起源』(2012年)からの抜粋である。彼は紀元前6世紀頃に世界同時多発的に起こった哲学の勃興が驚くべき事態であるとまず論じる。エゼキエルに代表される預言者がバビロン捕囚の中からあらわれ、イオニアには賢人タレスがあらわれ、インドにはブッダやマハーヴィーラ(ジャイナ教開祖)が、そして、中国には老子や孔子があらわれた。この哲学の起源の同時代並行性はなぜおこったのか。この時代に、ある「危機」があったからだと柄谷はいう。それは一言でいうならば、「イソノミア(無支配)」という社会形態が崩壊し、それが中央集権化し国家が成立していくときに、多くの自由思想家=哲学者たちがあらわれたというのだ。
一般に西洋的な哲学の起源は、アテネにおいてはじまったと考えられている。しかしそれは、プラトンとアリストテレスを中心とする見方に偏りすぎている。実は、ギリシアに特徴的であると思われているのは、ほとんどすべてイオニアに始まるという。イオニアというのは、アナトリア半島(現・トルコ)の南西部に位置するギリシアの植民市である。民主政の要因として重視されているアルファベット(表音文字)が作られたのはイオニアであり、自由交易のもととなる貨幣鋳造をはじめたのもイオニアである。彼らは官僚制や常備軍・傭兵をもたず専制国家とならなかった。また彼らは国家官僚による価格統制をおこなわず、それを市場にまかせた。ポリスの原理、つまり各人の自主的な選択によって成り立つという考え方もイオニアにはじまる。アテネの諸都市は、イオニアからそれを取り入れたのである。イオニア人は国家を拒む原理を保持していたために、自律的なポリスが保持されたと考えられる。イオニアには、アテネやギリシア本土から多くの者が移民していた。そのイオニアにおいて、最初の「自由」と「平等」が確立されている。
ギリシアにおける民主主義=デモクラシーの進展はアテネを中心として語られるが、この見方はある意味間違っていると柄谷はいう。デモクラシーの起源として、「イソノミア(無支配)」という状態がイオニアにあり、それが都市国家として多数者の支配形態としてギリシアに導入されたのがデモクラシーであった。デモクラシーとイソノミアの違いを正しく認識し、その差異の重要性に気づいたのは、ハンナ・アーレントだけであったと柄谷はいう。
なぜイオニアにおいてイソノミア(無支配)という形態が発展したのか。それは、植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設したからである。イオニアでは、伝統的な支配関係がなく、彼らは自由であった。また彼らには平等があった。平等は階級的なものだけでなく、経済的にも平等であったという。イオニアでは貨幣経済が発達したが、それが貧富の格差をもたらすことがなかったのである。その背景には大土地所有が成立しないような仕組みがあったからだ。一方、アテネには、現実には財産における不平等があり、階級制や奴隷の所有があり、国家を守るための軍制があった。デモクラシー(民主制)とは、実際には多数者による「支配」なのであり、支配者をもたなかったイソノミアとは異なるという。アテネのデモクラシーは、何よりも国家を保持するために必要とされたのである。イソノミアが成立していたイオニアの時代から、ギリシアのデモクラシーに移行していくとき、中央集権化や国家の成立という「危機」の事態があった。この危機を超克しようとして、あらわれたのが自由思想家=哲学者たちなのである。アテネの「哲学」とは、一言でいえば、イオニアに由来する思想を受け入れながら、それを超克しようとする企てであったと、柄谷はいう。これは哲学の問題である以上に、政治的な問題であったわけである。
アテネの哲学の起源に、イオニアの「イソノミア」があったということは或る意味忘却されていると柄谷はいう(それに正しく気づいていたのはアーレントくらいである)。そして世界史的にみると、イオニアに似たケースを二つ見出すことができるという。
一つは、10世紀から13世紀のアイスランドである。ここには、独立自営農民による自治的社会があった。君主も中央政府も軍もなく、すべてが農民の集会によって決定された。あらゆる意味で、階級的不平等や支配が存在しなかったという。つまり、イソノミアの状態が存在していた。アイスランド・サガ(神話)では、リアリズム的な描写が貫かれ、男女も平等に描かれているという。つまり、アイスランドの神話は、イソノミア的な社会から生まれたのである。このような社会がなぜ生まれたのか。それは、イオニアと同様、植民者によって形成されたからである。アイスランドは870年から930年にかけてノルウェーからの移民によって形成された。
イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、18世紀アメリカのタウンシップである。これもまた旧社会からの植民者によって形成された。アメリカ独特の市民社会のシステムは、東部にあるイギリスの植民地において形成された。これがタウンシップと呼ばれるものである。タウンは評議会(タウン・ミーティング)によって運営され、自治的な裁判制をもっていた。また市民は平等に土地が与えられた。それを可能にしたの広大なフロンティアである。ここでは、成員が遊動性(自由)をもち、それが平等をもたらすのである。タウンシップはイソノミア的な政治形態であった。タウンシップは、独立革命によってアメリカ合衆国が形成される以前から存在していた。
アイスランドの自治社会やアメリカのタウンシップは、イオニアのポリスがいかにして可能だったかのヒントを与えてくれる。第一に、イオニアには移動可能なフロンティアが充分にあった。自由であるがゆえに平等であるということが成り立ったのである。通常は自由と平等は相克する関係となる(自由を拡大すれば平等が崩れ、平等を保証するとき自由が制限される)。自由かつ平等であるというイソノミアの政治形態は実現が容易ではない。第二に、周辺に彼らを脅かす外部の国家がなかったということである。このように、イソノミア=タウンシップの存立は、内的および外的な条件に依存する。アメリカのタウンシップは、西部開拓がすすみフロンティアがなくなった後、イギリスに対抗し国家として州が結集しなければならなくなったときに、そうした中央集権化によって崩れていったのである。
イオニアの例を考えると、こうしたイソノミアの危機において、哲学がはじまったとみることができる。アメリカのタウンシップについても、それが成立しているときはその重要な政治的な意味というのは理論化されなかった。むしろ、それが崩れていき危機に瀕した後において、タウンシップを成立させたものは何だったのかという意味付けや理論化がおこなわれたのである。
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