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キリスト教人間観からみたデモクラシーが内包する危機とは——ニーバー『光の子と闇の子』を読む

デモクラシーが生きながらえるためには、ブルジョア世界の建設のために指導的役割を演じた哲学よりも、より適当な文化的基盤を見いださなければならない。これまでのデモクラティックな実験の基盤をなしてきた前提(presupposition)の不適当さは、ただ単にブルジョア的世界観の過度の個人主義や自由意志論に在るのではない。しかしながら、新興プロレタリア階級が中産階級の生活に見られる誤った個人主義に対して過度の集産主義(collectivism)をもって戦いを挑んでいた全西欧世界に、ブルジョア階級のこの過度の個人主義が市民生活における相剋を促進したのだということを忘れてはならない。〔ナチのような〕野蛮な思想の脅威に直面した時、この市民生活における相剋は、デモクラシー文明の弱体をさらに暴露することとなったのである。(中略)
しかし、もっと根本的な誤謬は、ブルジョア・デモクラシーの個人主義や、マルキシズムの集産主義よりは、デモクラシー文明の基盤をなす社会哲学そのものの中にあるのである。その誤謬というのは、ブルジョア理想主義者も、プロレタリア理想主義者もともに、自己本位の個人的利益と一般的利益の間の矛盾および葛藤が容易に解決できると確信した点である。(中略)ブルジョア的個人主義はあまりに過度であるがゆえに、時としては個人とコミュニティとの有機的なつながりを破壊することがあるかもしれない。しかし、これは国家内の秩序や国際間の秩序のいずれをも破壊しようと意図されたものではない。むしろ逆に、わがデモクラシー文明を裏づける社会的理想主義は、あらゆるレヴェルにおいて、私的利益と一般的福祉とは簡単に調和しうるものだという哀れな確信をもっていたのである。

ラインホールド・ニーバー『新板 光の子と闇の子——デモクラシーの批判と擁護』晶文社, 2017. p.15-17.

ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr, 1892 - 1971)は、アメリカの神学者・倫理学者〈ネオ・オーソドクシー(新正統主義)〉と呼ばれる神学傾向の代表的存在。1920年代に左派の牧師として登場し、1930年代には新正統主義へと立場を変え、どのように傲慢(pride)の罪が悪をこの世に作りだすかを説明した。そして、キリスト教的リアリズムとして知られる神学に影響を受けた哲学的な考え方を作りだした。著書に『アメリカ史のアイロニー』、『人間の運命』、『道徳的人間と非道徳的人間』などがある。

ニーバーは、現実に取り組むことのない空想的な理想主義(ユートピアニズム)を非難し、1944年発刊の本書『光の子と闇の子』では以下のように書いている。「正義を取り扱うことのできる人間の能力が民主主義を可能にする。しかし、不正義に陥りがちな人間の傾向が民主主義を必要とする。」1945年以降、ニーバーのリアリズムは深化したとされ、結果としてソビエト連邦と対峙するアメリカの支援に彼を導いたとされる。

ニーバーのこの本『光の子と闇の子』が刊行された1944年は、ドイツと日本の降伏がもはや時間の問題となっていた時期である。本書の意図は、ナチズムの退散後、世界が新たに直面するであろう次の対立、すなわち、米ソの対立、デモクラシーとマルキシズムの対立を見越して、それぞれの原理と実際の内包する問題をキリスト教神学の立場から解明しようとするものである。両体制がどのように機能するのか、正義と自由を確立することを目指す指導原理としての根本問題を究明しようとするものであり、さらに、新しい世界共同体の可能性と問題を視野に入れて論じている。

「闇の子」であるナチズムなどの凶悪な専制的権力にくらべ、デモクラシーとマルキシズムとの両方をニーバーは、この段階では「光の子」と呼ぶのであるが、人間の本性、特に、人間の「悪」の問題の把握における深い洞察の欠如の故に、両者を「愚かな光の子」とよんでいる。デモクラシー社会が内容するその洞察の欠如、あるいは誤謬についてニーバーは「自己本位の個人的利益と一般的利益の間の矛盾および葛藤が容易に解決できると確信した点」にあると指摘する。そのことを彼は「(私的利益と一般的福祉とは簡単に調和しうるものだという)哀れな確信」と述べている。これはキリスト教人間観からみると、哀れな楽観主義(オプティミズム)だと言うのである。そして、その楽観主義が、国内社会においても、また、可能性として待望されている世界共同体の形成においても、政治・経済の諸勢力が複雑に相剋する歴史の現実において、自由と社会主義を実現してゆく上にどのように機能し、どのような困難な問題をもたらすか、道のけわしさを指摘する。

伝統的に楽観主義的な自由主義神学(リベラリズム)の支配的なアメリカにあって、人間の罪(原罪)を重視する人間観に立って歴史の中の「悪」の問題を鋭く説くニーバーの立場「ネオ・オーソドクシー(新正統主義)」とよばれる。彼は、原罪説に立つ宗教改革のキリスト教人間観を重視し、人間が神のように自己をも超えて世界を見遥かす自由を持つことにおいて、無限の創造性を内包するとともに、その自由において自己を絶対化し、自己中心的に他者を支配しようとうする権力欲に陥るこれがまさに罪であり、人間の悪はここに源を持つと、「悪」の問題を鋭く捉えたのであった。

しかし、本書は、デモクラシー社会の弱点や問題を鋭く分析しながらも、究極的にはデモクラシーの原理の正当性を擁護するものである。愚かな光の子としてのデモクラシーの伝統とその本質的課題の解明をなすとともに、キリスト教人間観によるマルキシズムの人間観の批判的分析としても興味深い。


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