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哲学者と「死」——ハイデガーとレヴィナスの違い

この点で、ハイデガーにとって、他者の死は「私」の死に比べると二次的なものであり、「私」の死が主要な問題である。筆者の見解では(こうした批判は、最初にエーディト・シュタインやエマニュエル・レヴィナスによって練り上げられたものであるが)、このような死の概念は間違っており、道徳的に有害である。それどころか、死は親や仲間や子供のような身近な他者の死や、食糧不足や戦争に苦しむ名前さえ知らない犠牲者のような遠くの他者の死を通じて、私たちの世界にやってくると筆者は考える。死との関係は第一位のそして主要な「私」自身の消滅に対する「私」自身の恐怖ではなく、深い悲しみや嘆きの経験によって気が動転した存在についての「私」の意識である。

サイモン・クリッチリー『哲学者190人の死に方』杉本隆久・國領佳樹訳, 河出書房新社, 2018. p.292.

著者のサイモン・クリッチリー氏は、1960年生まれのイギリスの哲学者である。専門は現象学、大陸哲学、フランス現代思想。本書『哲学者190人の死に方(The Book of Dead Philosphers)』は古代から現代までの190人の哲学者について、死をどう捉えていてか、どのように最期を迎えたかについて、それぞれの哲学者の思想とともに紹介しているものである。しかし、ただ単に哲学者の死に方を面白おかしく紹介した本ではない。一流の哲学の考え方についても学べる骨のある一冊となっている。

例えば、序論では「哲学をするとは死ぬことを学ぶこと」であるというソクラテスの考え方が紹介されている。しかし、ここで「学ぶ」とはどういうことであるのか。著者は「(哲学をするときに)学ばれたことは知識ではない」と断言する。「哲学が教えるものは、市場にある商品のように買ったり売ったりできる、なにかしら量化可能な知識の総和ではない」という。それでは何なのかというと、哲学とは「エロス的」なものだという。つまり「哲学は、知識の領域にある確実性への疑いと知恵に対する愛の修養から始まる」のである。つまり、哲学を学ぶときに働かせるものは「頭(精神)」ではなく、「魂(プシューケー)」なのである。

マルティン・ハイデガーについて紹介した項目では、彼の死に対する考え方と、エーディト・シュタインやエマニュエル・レヴィナスのそれが対比的に語られる。シュタインはアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所でガス室でなくなったユダヤ人の女性哲学者である。レヴィナスもユダヤ人であったがホロコーストを生き延び、師ハイデガーの現象学を批判的に継承した「他者の哲学」を打ち立てる。

ハイデガーの『存在と時間』における死の考察は「先駆的決意性」の概念に象徴されている。それは、死に直面したときに本来の自己に立ち返り、迫りくる死の避けがたさを真正面から受け止め、その自覚から翻っておのれにふさわしい状況内行為を摑みとろうとするあり方のことである。しかし、クリッチシー氏は、シュタインやレヴィナスにならい、この「死」の捉え方が「私の死」を主要なものとし過ぎていると批判する。ここでは、あくまで「他者の死」は二次的な、副次的なものとして扱われているからである。そして「このような死の概念は間違っており、道徳的に有害である」とまで断言する。むしろ、「他者の死」を「私」の意識がどう捉えるかということのほうが、私たちの「死」の概念にとって本質的であると筆者は主張する。

死は「親や仲間や子供のような身近な他者の死や、食糧不足や戦争に苦しむ名前さえ知らない犠牲者のような遠くの他者の死を通じて、私たちの世界にやってくる」と、クリッチリー氏は述べる。私たちが「死」について真に学ぶとき、それはソクラテス的意味で「哲学」をしているときである。そして、それはおそらく、私と他者の関係性について深く学んでいるときなのであり、頭ではなく「魂」のレベルで学んでいることなのであろう。


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