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洞窟の外に出てイデアの光を見よ——プラトン『国家』を読む

「(略)——ではこれから言うことを、しらべてくれたまえ」
「言ってください」と彼はうながした。
「哲学者たちが国々おいて王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。さらにわれわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても、このことが果たされないうちは、可能なかぎり実現されて日の光を見るということは、けっしてないだろう。
さあ、これがずっと前から、口にするのをぼくにためらわせていたことなのだ。世にも常識はずれなことが語られることになるだろうと、目に見えていたのでね。実際、国家のあり方としては、こうする以外には、個人生活においても公共の生活においても、幸福をもたらす途(みち)はありえないということを洞察するのは、むずかしいことだからね」

プラトン『国家(上)』岩波文庫, 1979. p.452.

師ソクラテスが国家の名において処刑された。それを契機として書かれたのが、プラトン(前427 - 前347)の著作の中の最高峰とされる『国家』である。岩波文庫で約900頁をなす大著である。師ソクラテスが説きつづけた「正義」と「徳」の実現には、人間の魂のあり方だけではなく、国家そのものを原理的に問わねばならないとプラトンは考えるにいたる。この課題の追求の末に提示されるのが、本書の中心テーゼをなす「哲人統治」の思想にほかならない。理想の国家を統治する哲人王による統治。王となるべき国家運営の任にあたる哲学者は何を学ぶべきか。この問いに対して、「善」のイデアと、そこにいたる哲学的認識のあり方が、かの有名な「洞窟の比喩」によって説かれ、終局のところ「正義」ことそが人間を幸福にするのだと結論される。

プラトンには多くの著書があるが、ソクラテスの死刑裁判における彼の弁明について書かれた対話篇『ソクラテスの弁明』、そしてその続編でありソクラテス刑死の前日の対話篇である『クリトン』、愛の本質とエロスについて書かれた対話篇『饗宴』、やはり刑死前日の話で「死」と「イデア(真実在)」について語る『パイドン』についても過去記事を書いているので参照されたい。『国家』はプラトン中期の傑作であり、「正義」「善」「イデア(真実在)」などに関する師ソクラテスの考えを、国家と人間という視点でまとめげたプラトン著作中最高峰といえる作品となっている。

有名な洞窟の比喩が出てくるのも『国家』である。

……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……

『国家』第7巻

洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実在」の「影」であるが、人々はそれを実在だと思い込んでいる。「実在」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。

『国家』は、「正義」とは何かという問いからはじまる。「不正」をなす人のほうが「正義」の人よりも現実には得をしているのだし、法律も罰もないのだとしたら、人々は「正義」など信じないし、不正をするはずだ。そのほうが人は幸せに生きられるのではないかという人物に対して、ソクラテスは壮大な反論をはじめる。人間にとって「正義」とは何かという問いを考えるために、まずは国家にとっての「正義」とは何かを考え、国家のあり方(国制)と国家の「政務・軍事・商業」という三部分について考察する。そして、それを人間の「魂」にも適用し、魂には「理知的部分・気概的部分・欲望的部分」の三組成があるとする。

国家においては、政務をつかさどる王が真の意味での「哲学者」でなければならないとプラトンは言う。政務が安定して、軍事・商業においてもバランスがとれる。軍事や商業が先行してしまうと、国家は乱れてしまう。この三部分をプラトンは分かりやすく動物に例える。政務(理知的部分)を「人間」に、軍事(気概的部分)を「ライオン」に、商業(欲望的部分)を「多頭の怪物」に例える。ライオン(軍事=気概的部分)が先行した国家は、僭主制(独裁制)国家となり、多頭の怪物(商業=欲望的部分)が先行した国家は民主制国家となる(民主制は現代の民主主義制にも似ているが、ここでは無政府主義に近い混沌とした状況が起きる悪い例として挙げられている)。目ざすべきは優れた王による君主制(優秀者支配制)である。

これと同様に、人間にも君主制的な人(理知的部分が先行する人)と、僭主制的な人(気概的部分が先行する人)と、民主制的な人(欲望的部分が先行する人)がいる。後者二つが、自分の中の支配的欲望や金銭的欲望を肥大化させてしまい「不正」をなす人間になってしまうのは明らかである。それに対して君主制的な人間=理知的部分を先行させる人間は、この世の表層的な事柄にこだわらず、「正義」「善」「美」のイデアを目ざすような人間となる。「洞窟の比喩」でいえば、イデアの真実在を見ることのできる人間は、洞窟の壁に映った光の影を実在と思わず、洞窟の外の本当の光を見ようとする者である

『国家』は実に面白い本である。「国家」のあり方を説いているようで、プラトンが本当に言いたいのは、人間はどう生きるべきかという、あの師ソクラテスの「魂を配慮せよ」の教えを、国家論から考えて説き起こしていったというものではないだろうか。プラトンが理想とした「国家」は現実には実現しなかった。真の意味での「哲学者」が国を統治することが理想であったが、現実にはそうでないため、戦争や不正が絶えない社会となっている。それでは、どのようにしてその理想の国家を実現するかといえば、人を教育することから始めなければならない。人は幼少期から「哲学」に親しむべきであるし、その「哲学」とは、単なる弁論術・詭弁術を教えるような(当時のソフィストたちが教えていたような)表層的なものであっては決してならない。「真善美」のイデアをしっかりと見据え、対話的方法(ディアレクティケー)によって真理にいたる術を心得ている者を育てなければならない。そして彼らが「哲学者」になった暁には、つまり洞窟の外に出て太陽の光のもとに出たときには、また洞窟に戻ってきて人々を教えるということをさせなければならない。なぜなら、一部の人間だけが幸福になっている社会は真の幸福な社会とはいえず、すべての人が幸福な社会こそが目指されるべきだとプラトンは考えたからである。


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